11/07/10 16:05:49.46 I3pnITcn
神を求める。
祈りも、2003年からボチボチ、辛いときや雰囲気が悪いときに祈って神に答えを求めた経験がある。
無論現実主義者で、神の声が聞こえるとか、何か言葉ではない答えが与えられるかもと半信半疑ではあったが、2005年くらいからは
一応半信半疑が悪(実は神とサタンという二元が存在していると仮定して、ネガティブステータスは-になる可能性思慮)で神が近づけない場合も考えてやめ。
今までの数十回で得た「祈り」による結果は、
「ちょい雰囲気が良い」
というものだった。私は現実主義者なので「お前よ、答えは○○にある」「素晴らしき栄光の光を授けよう。お前は許され、そして自由だ。
それが親の私がお前を息子と証明するための可能性だ。受け取れ」とか声が聞こえたり、(うぉおーなんじゃこりゃあ?!情熱が湧き上がってくるぅ!)情熱がこの周囲、時代では場違いなほど自らに及んだりといった
ものを期待、いやそれくらい奇跡でも不可能でもなく神には容易いものなんじゃないかって。
しかし数分後の「祈り」の結果にあったもの、それは
「ちょい雰囲気が良い」
(ああ、さっきより良いな)まぁ雰囲気宗教だし、とりあえずはこれで、いいか。
そうやって感謝して帰ってった俺。
雰囲気さえ良ければ人は人を罰しないし、なんでも無気力でできる。働くことも芸術の時間を取ることも苦にならないだろう。
しかし訴えゼロで、何故俺は善人なのにそれが、良い雰囲気が凄まじいほどに与えられないんだろうか?
分からない、はっきりとしてほしい。愛が善人間に与えられるなら、下から、若者から与えて当然なのに、神は何故??