11/05/08 11:20:31.68 grx1iBFU
>>223
No30はあなたが書いたのか。
キリスト教、聖書の究極の目的(個人的には)は救済されて永遠の命を得ることでしょ。
ところが、創世記の初めの人間のアダムは最初は永遠の命を得ていたはず、
しかし、アダムは蛇に唆されたエバに唆されて禁断の実を食べてしまった。
その罰として、永遠の命を奪われて、楽園からも追放されてしまった。
これを「原罪」といい、アダムの子孫である全人類は、これを生まれながらにして背負わされている。
再び「永遠の命」を得る為には、この原罪を贖わなければならない。
「贖う」というのは「買い戻す」という概念に近い。
この辺は日本人には解りにくいね。
それで、イエスは無原罪で生まれた、とされている。(聖母マリアも)
それで、イエスは自分は無原罪なのに、全人類の原罪を背負って十字架に掛けられ、
その命でもって、全人類の原罪を贖った、
だから、イエスを信じる人は、それだけで永遠の命を得られる。
という教義、信仰がある。
これが、キリスト教、聖書の根本教義。
で、ノストラに戻ると「(他人の)支払いをした」というのが、このイエスの贖い、に相当する訳。
つまり、人は本来、自分の勘定は自分で支払わなければならない、
ところが、イエスが既にそれを支払ってくれていた、となる。
各自が自分で自分の命を贖わなければならないのに、イエスが既に贖ってくれていたんだな。
それに、イエスは王に喩えられていて、(揶揄的に)ユダヤ人の王として処刑された。
だから、「(他人の)支払いをした大王」とは、イエスを暗示している。
つまり、一般に「恐怖の大王」とだけ思われていた語は、イエス・キリストも暗示していた、
と解釈できるんだな。