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戦前、水利事業のため朝鮮に移住した著者は終戦一年後、朝鮮人技術者養成のための
強制残留命令が出たことを知り、翌八月三十一日に収容所の日本人とともに帰国のための逃亡を開始した。
▼九月三日。
途中で自警団に捕まり、持ち物検査と金銭を強要されたうえ、いくら頼んでも足止めされる。
▼九月四日。
午前七時、出発。まもなく五、六人の自警団に捕まる。朝鮮語しか話さないので、沢谷さんが流暢な朝鮮語で応じた。
すると、「敗戦国の日本人が、戦勝国の朝鮮語を使うとは生意気なやつだ」と日本語で怒鳴る。そのうえ持物検査、金銭
強要とくる。この日は運が悪く、このあと持物検査、金銭強要に三回もあう。最後のところでは各人千円づつ取られたが、
要求額の五万円に満たないといわれ、照りつける道路上で五時間も土下座させられた。
▼九月五日。
夜が更けてからこの日も途中で四回、持物検査と金銭強要にあう。
▼九月六日。
午前二時、出発。炭鉱検査所を急いで通りすぎたが、突然、後ろから呼び止められる。宿直員らしい。持物検査と金銭強要
される。(中略)そのあと保安隊に捕まり、持物検査のうえ金銭強要される。そして、まっすぐな道路に平行して流れる川
を指さし、「日本人の帰る道はこっちだ」と強制的に渡らされる。午前六時、また保安隊に捕まり、持物検査と金銭強要の
あと、小学校の校舎に泊まらされる。
つづく。。。