【都知事選】舛添氏の「新党改革」 政党助成金で借金返済 政党支部→資金団体と迂回 (赤旗)★2at NEWSPLUS
【都知事選】舛添氏の「新党改革」 政党助成金で借金返済 政党支部→資金団体と迂回 (赤旗)★2 - 暇つぶし2ch579:名無しさん@13周年
14/01/22 01:46:54.77 AMR40gzQ0
 
母親の介護は週1回程度で、毎日介護は三番目の姉が行なっていた

【生活保護】 舛添要一が、「生活保護の姉、北九州市の扶養要請を断わった非情さ」・・・ 週刊文春
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福岡県生まれ舛添要一「消せない過去」生活保護の姉、北九州市の扶養要請を断わった非情。  
福岡県八幡市(現・北九州市八幡東区)に父・彌次郎、母・ユキノの長男として生まれた。4人の
姉がいる。2度目の妻は官僚時代の片山さつき(当時朝長さつき)であり、衆議院議員だった近
藤鉄雄の紹介でお見合いしたのが馴れ初めで1986年に結婚。しかし実質的な結婚生活は長続
きせず、3ヶ月後には片山が弁護士に相談する事態に陥ったといい、調停を経て1989年に離婚。

舛添要一氏が母親の介護を始めたのは平成8年(1996年)からだ。4人の姉のうち4番目の姉
が長年に渡り生活保護を受けていた。平成4年(1992年)、北九州市の担当職員が「可能な範
囲で1万でも2万でもいいから仕送りしてくれ」と頼みに舛添要一氏の家を訪ねたが追い返された。

当時の舛添要一氏はTVタレント学者としてテレビマスコミ界で稼いでおり、億単位で不動産を買
い漁っていたほどの金満ぶりをみせていた。北九州市は生活保護率が全国一だったこともあり、
当時は生活保護の適正化に一生懸命だった。そこで、舛添要一にお願いに上がったら追い返さ
れたという。

母の介護と長姉との確執について、4人の姉のうち長姉とは母の介護を巡って絶縁状態にあった。
「他の妹は要一のほうについた」という(長姉談)。舛添氏が母親の介護をしていたのは平成12年
(2000年)に亡くなるまでの3年間ほどで週1回程度訪ねにくる程度だったという。本当に毎日介護
していたのは、三番目の姉が行なっていた(近所の談)。

舛添氏が介護に携わるまで長年、長姉夫婦が一緒に暮らしていたが、病院で母親の死んだことを
知らせなかった。舛添氏が長姉夫婦が母を虐待していたと書いているが、「全部嘘」(長姉夫婦談)。
母が入院して病院や施設関係者へ文春の取材では、長姉夫婦が虐待をしていたことはなかった。
 URLリンク(nihon.phpapps.jp) <記事写真>


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