14/01/12 15:15:53.00 7SYWShFB0
>>916
その真意は「全てにおいて社会的規律を重視すべきではない。
時として規律より情を重んじるべき時がある」という考え方だ。
しかし、これは非常に矛盾を孕んでいる。もし、温情を重視する
のであれば、規律は2の次ぎで個人や家庭などが中心に
ならなければならない。ところが儒教国家は決まって、国家の
都合のよい解釈でこれを利用しようとする。
朝鮮だけでなく、中国、日本も同じだ。結果的に近代化が
遅れてしまう。
まず、儒教という物が当時最先端であったとしても、こんにちに
おいてはむしろ時代遅れになっていると考えるべきである。
でもって、次に儒教の精神はどこにあるのか?と考えれば、
この>>916の例で言えば、現代におけるヒューマニズムにあたる
であろうことは、すぐにわかるはずだ。
例えば経済政策で言えば、厳格なルールに基づいたフリードマン
流の経済政策を推進するとしても、人間には間違い(経済学では
「市場の失敗」と言う)があるのだから、時として「ルールの一時
変更」が必要になるだろう。つまりケインズ政策こそ、今日の
儒教的経済政策と言える。アベノミクスで一躍有名になった
「リフレ政策」もそういう意味での政策のレジーム転換(一時的
ルール変更)という意味で儒教的とも言える。