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百人斬り競争
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概要
この競争の模様は、『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)の、1937年11月30日付、12月4日付、
12月6日付、12月13日付によって報道された。
その後、1938年に野田少尉は鹿児島に帰還し、「最終的に374人の敵を斬りました。」と語っていることを鹿児島新聞
(3月21日)、鹿児島朝日新聞(3月22日)が報じている。野田は3月24日には神刀館で百人斬りの講演を行っている。
1939年5月19日に向井少尉は305人斬り、500人斬りを目指して奮闘中であると東京日日新聞が報じている。
戦犯裁判
1947年の夏、ともに陸軍少佐として復員除隊していた向井敏明と野田毅はGHQにより逮捕され、警察署に拘留された
後巣鴨拘置所さらに中国・南京戦犯拘留所に移送され、12月4日に東京日日新聞の報道や「南京の役 殺一〇七人」の
軍刀などを基に南京軍事法廷において住民捕虜虐殺の容疑で起訴された。12月18日に最初の公判が行われ石美瑜
裁判長によって「連続して捕虜及び非戦闘員を虐殺した」罪で即日死刑判決を受け、中華民国によって1948年1月28日に
南京郊外(雨花台)で処刑された。