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朝鮮人パルチザン・朝鮮共産党員による日本人虐殺
日本軍決起にともなって、日本人居留民のほぼ全員が惨殺された。しかしソ連側文献は、
「居留民の死は決起した日本軍にあり、パルチザン側にはない」という見解をとっている[36]。
原暉之はこのソ連側の見解を受け、参謀本部編『西伯利出兵史』の「
戦闘の局外にあった民間人が敵軍の手で皆殺しになったような書き方」に疑問を呈している[84]。
この項では、決起後の日本軍の戦闘を追うとともに、居留民虐殺の状況についてまとめる。
3月13日、中国軍砲艦による砲撃で日本軍兵営を悽惨極めるほどに破壊された[4]。憲兵隊と合した後藤隊の生存者は
、砲撃してきた中国軍砲艦目がけて突撃して全滅したと思われると香田昌三一等兵は書きとめている[4][89]。
11時には2月7日の戦闘で重傷を負った榊原海軍機関大尉が陸軍病院で息を引き取った