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「一体、誰に似たんだか」。冗談混じりに言われたことのある人も多いだろう。だが本当に家族が赤の他人だったら―。
60年間の人生を覆す「真実」。それを知ることは、はたして幸せと言えるのか。
今回の件で、私が感じたことは二つあります。ひとつは、われわれは科学技術信仰によってはたして幸せになったのか、という問題です。
本来、人間の生というものは、分からないことがたくさんあるものです。分からないものを受けとめるのが人生、といってもいいかもしれない。
今回、DNA鑑定という科学技術が、その男性には本当の家族が別にいることを明るみに出しました。しかし、それで何かが解決するのか。
ひょっとしたら、何もなければ幸せだったご本人にとって、わざわざ『不幸な状況』を生み出しただけではないのでしょうか」
宗教学者の山折哲雄氏は「その男性」の人生についてこう語った。
その男性とは、60年前に別の新生児と取り違えられ、本来は赤の他人である「家族」と人生を送ってきた60歳男性(以下、Aさん)。
このAさんと実弟3人が東京・墨田区の産院を訴えていた裁判で、原告側が勝訴する判決が下った。
〈(Aさんは)親の愛情を受けて育ったと考えられるが、そのことによって真実の両親との交流を永遠に断たれてしまった衝撃と
喪失感を償いきれるものではない〉(判決文より)
今回の判決について、前出の山折氏は、日本社会が「血縁主義」に偏りすぎではないかとも指摘する。山折氏の言葉を続けよう。
「血のつながりこそが絶対だ、という考えが日本の社会にはいまだにあります。
一方で日本には昔から『生みの親より育ての親』や『親がなくとも子は育つ』といった良い言葉がある。
こうした先人の知恵を無視するかのように、近代になって『血縁主義』が強化されてきたのだと思います。
それは科学とは無関係ではありません。たとえば、昨今の行きすぎた不妊治療の問題は、
科学の力によって『血縁主義』が頭をもたげた一例です。
血縁にこだわるよりも、『生みの親より育ての親』という考え方のほうが人間としてよっぽど上等だと私は思います」
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