13/11/07 05:11:34.66 KAvfe7p8i
>>515の続き
日本降伏後の1945年9月、東京に赴いてノーマンはいち早く、マルクス主義憲法学者の鈴木安蔵と接触し、
「憲法研究会」と称する左翼グループを作らせ、GHQ草案に近似した憲法草案を公表させる工作に従事したのであった(原秀成「日本国憲法制定の系譜・Ⅲ」2006年)。
この意味で「日本国憲法」は、単に占領軍将校が、一週間で作った「GHQ憲法」というだけでなく、もっとディープな「影の工作」をそもそもの基礎として生まれたという点で、
「ノーマン憲法」さらには、「コミンテルン憲法」という方が、より本質に近い呼び名であると思われる。
ノーマンはまた、戦犯指定を差配し、近衛文麿を戦犯指名するようGHQを動かした影の工作者でもあった。
近衛は昭和20年10月にマッカーサーから新憲法起草を指示されており、戦犯指名はされないはずであった。ところが12月に突如「戦犯」として逮捕命令が出され、出頭期日の12月16日に自殺することになる。
そして、尾崎や朝日新聞は何の処分もなかった。
ノーマンはその後、第二次世界大戦後の冷戦下のアメリカで起きた赤狩り旋風の中で共産主義者の疑いをかけられ、
アメリカの圧力を受けたカナダ政府による審問を数回に渡って受ける。
そのようなアメリカからの圧力から逃れさせるべく、1953年には駐ニュージーランド高等弁務官に任命され、その後1956年には駐エジプト大使兼レバノン公使に栄転する。
しかし、都留重人を取り調べたFBI調査官によるアメリカ上院における証言によって「共産主義者」との疑いを再度かけられ、1957年4月4日に赴任先のカイロで飛び降り自殺を遂げた。
アメリカは、第二次世界大戦にコミンテルンの誘導で突入した。
草の根のアメリカ保守は孤立主義なのだ。アメリカには資源も土地もあるのだから。
第二次世界大戦でアメリカはなんの得もしなかった。
勝者は、ソ連と中国共産党だった。