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10月8日(火)朝日、毎日、東京は昨日京都地裁で判決が出されたヘイトスピーチは差別とする
画期的判決について詳しく解説してしている。読売や産経が判決を小さく見せようとしいているのは、
核心には朝鮮高校への差別意識があるのだろう。高校授業料無償化に反対する論調の背後にある
暝い潜在意識である。ある記者がヘイトスピーチについて記事を書こうとしても、暗黙の否定的空気が
あると言っていた。メディアが普遍的価値を覆い隠そうとするのは、時代の権力に自ら拝跪するものである。
京都地裁判決の画期的なことは、日本が1995年に加盟した人種差別撤廃条約を根拠としている
ことである。今朝の学者コメントは、半年前と同じ言葉を繰り返す者がいるように、現実の差別の苛烈さ、
エスカレートを知らない机上の議論である。現行法でも対応できるというが、たとえば今度の裁判のように
3年闘えというのか。基本的問題は、差別を受けている人たちへの人間的アプローチがない。
(中略)
「まいどお騒がせいたしております。こちらは不用品の回収車です。ご近所でご不要な南朝鮮人、
腐れ朝鮮人などございましたら、車までご合図願います。どんな状態でも、ご処分いたします。
泥棒、売春婦、ストーカー、どんな朝鮮人でも結構です。生きたままでも結構です。お気軽にご合図願います」
「皆さん、左手ご注目ください。日本を攻撃する悪の組織、在札幌韓国総領事館が見えてまいりました。
皆さん、いきますよー(ここまで猫なで声)。排泄物をトイレに流すと教えた恩を仇でかえしやがって。
恩知らず、恥知らずな朝鮮人どもを糞尿まみれにしろ(罵声で)」
これを「表現の自由」というだろうか。これは言葉の暴力=ナイフである。人種差別撤廃条約が
求めるように、日本も差別禁止法あるいは刑法での新たな規定が必要である。差別され、苦しみ、
懊悩し、耐えている人たちの真情を基本に、在特会に象徴されるような醜悪な差別に対して
日本社会がいかに対峙していくかである。いまこそ日本版戦闘的民主主義が求められている。
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