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★牧太郎の大きな声では言えないが…:弾丸列車の夢
戦前、鉄道マンの「夢」は壮大だった。
「鉄道に生きた人びと[鉄道建設小史]」(沢和哉著、築地書館)によると、1930年2月、鉄道省のベルリン事務所長の「湯本昇」という人物は中東を視察。
砂漠のキャラバンが行き交う「東西交通の要衝」だった中東が衰退した原因は輸送経路のメインが、インド洋やシベリア鉄道に移ったことにある……と看破した。
中央アジア横断の鉄道が必要だ!
鉄道省監察官として帰国した湯本さんは「夢」の実現に奔走する。
まずは、東京?下関間を結ぶ弾丸列車計画。最高時速200キロ、東京?大阪間を4時間半で走破する。
当時の最先端技術「電車での運行」を主張したが、軍部が「変電所が爆破されれば一発で動けなくなる」と反対。「蒸気の弾丸列車計画」を帝国議会が承認した。
その頃(39年10月)、彼は「中央アジア横断鉄道建設論」(東亜交通社刊)を発表している。「次は対馬海峡を横断する海底トンネル建設」である。
当時、世界に誇る鉄道技術で、世界有数の上越線・清水トンネルが完成していた。下関?門司を結ぶ「海底トンネル」も着工していた(42年完成)。
朝鮮半島まで延びる海底トンネルだって決して「夢」ではなかった。
最後は日本から、朝鮮、北京を経て中東に延びる中央アジア横断鉄道。
彼は「旅」(39年10月号)の中で「東京?パリ間はシベリア鉄道経由で15日かかるが、新しい鉄道では10日間で走破できる」と書いた。
日本が「世界の覇者」を目指した時代だった。「仰天の計画」も実現可能だった。しかし、この壮大な計画は戦局悪化で頓挫する。すべてが「平和」が前提だった。
弾丸列車構想は二十数年後、東京オリンピックの64年「東海道新幹線」開通で実現した。
2020年東京オリンピック。米倉弘昌経団連会長が「できればリニア中央新幹線を実感できるようなことになればいい」と話したが、
ともかく夢の弾丸列車は平和ニッポンのお家芸になっている。
もしかして、韓国との間に「蜜月」が戻れば「対馬海峡海底トンネル」だって夢ではない。(専門編集委員)
毎日新聞 2013年09月24日 東京夕刊
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