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42年5月、日本軍の南方派遣軍司令部は、朝鮮軍司令部に対し慰安婦募集に関する協力を要請した。
朝鮮軍司令部が選定した慰安所業者らは「多額の金を稼げる」という甘い言葉や、まとまった額の金をあらかじめ前借金として渡すなどして、慰安婦を募集した。
募集された慰安婦は、7月10日に業者・管理人と共に釜山港を出発した。
「一昨年慰安隊が釜山を出発したとき、第4次慰安団の団長として来た津村氏」(44年4月6日)という日記の記述から、このほかにも日本軍が朝鮮で数度にわたり慰安団を組織したことが分かる。
従軍慰安婦の一部は、数百円の前借金を受け取った。その金は軍から出たというのが、研究者らの分析だ。
日記には、これを裏付ける記述も見られる。慰安所業者らは、慰安所を簡単に譲渡し、新たな業者は特に負担もなくこれを引き継いだ。
日記の筆者もまた、義理のきょうだいが事故で死亡した後、このきょうだいが運営していた慰安所への縁故権を主張しなかった。
これは、事実上軍が慰安所を所有しており、業者は経営のみを担当していたからだ。
また日記は、慰安所が日本軍の完全統制下で運営されていたことも示している。日記に登場する慰安所は、ビルマに27カ所、シンガポールに10カ所。
各慰安所は「航空隊慰安所」「兵站(へいたん=戦闘地帯から後方の、軍の諸活動・機関・諸施設を総称したもの)管理慰安所」のように特定の部隊に所属しており、
収入報告書・営業日報などの報告書を定期的に所属部隊へ提出した。
「(ラングーン〈現在のヤンゴン〉の)インセンにいる高部隊、すなわち航空隊所属の慰安所2カ所が兵站管理に移譲された」(43年7月19日)
「村山氏が経営する慰安所『いちふじ楼』が兵站管理になり」(7月20日)と日記に記述されているように、所属部隊が変更されるケースもあった。