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”奴隷の首輪自慢”とは?
自身の待遇や環境の悪さに不満はあるものの結果的に妥協し逆に自身の自慢や自信としてしまう事。
奴隷に例えれば誰が一番「鎖が短い、鉄球が重い、首輪が錆びているか」を競うようなものである。
本物の奴隷は不満が暴動の原動力となるが日本人労働者は平均的に「人生の糧」とする事が多い。
ただし一時的に自身を偽っているに過ぎず仲間が不満を漏らせば「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」とばかり
不満を妥協させようとする。玉音放送の主は「謝罪」の感情も込めていたが、コチラは完全な強要と変わらない。
つまり「自分がこれだけ我慢してるんだ、オマエもやれ」と理不尽の押し売り・負の連鎖でもある。
年功序列が健在ならば「人生の糧」化も不可能ではないが、そうでない時代では「ただの理不尽」も珍しくない。
なぜなら非効率な環境では有意な成果は生まれ難い。自ら進んで「理不尽と同居」する時点で多難は必然である。
そして成果主義の環境では結果が求められ、非効率や理不尽を「世話しながら」ではいずれは限界も見えてくる。
時には忍耐や我慢を経験してこそ精神的に成長できるだろう。人生においてそれは必要でもあろう。
ただ、「理不尽」ばかり経験するのは”徒労・無駄”に過ぎず、場合によっては「犯罪行為やその助長」にもなりうる。
倫理的な善悪や義務・権利、常識・犯罪の枠が通用しない時、妥協する前に今一度考えた方が当人のためであると思う。