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甲午改革
URLリンク(ja.wikipedia.org)
朝鮮では各地で乱が続いていた。
1894年に甲午農民戦争が起こり、朝鮮の力が及ばず清に救援を要請し、
清は朝鮮出兵を決め天津条約に基づき日本に朝鮮への出兵を申告したものの、
その中で清は朝鮮を属領と称しており、朝鮮を独立国としてみる日本には
到底看過できないものであった[1]。
もともと日本政府は江華島条約(日朝修好条規)で朝鮮の独立を世界で
一番早く認めていた
(というより、朝鮮が清朝の冊封体制から脱却し独立国となることを
望んでいた)が、朝鮮の宗主国である清朝政府によって
干渉、妨害され改革が進んでいなかった。
黄海道の道都・海州の両班の家に生まれる。とあるので
支配層の身分の出身だったのですね。
安重根さんがそうだったかはわかりませんが、併合により
身分制度が解放されたせいで、両班ら身分の高かった層の不満は
相当だったと想像できますね。
安重根さんの評価は、日韓で違っても致し方ないことです。
思うに、李氏朝鮮があれほど混乱したのは清国がアヘン戦争やらで
国力が弱った影響も大きかったでしょう。
列挙したウィキによると、日本はむしろ朝鮮半島は独立国として
きちんとしていてくれていたら、ロシアの南下政策の脅威も薄れ
なにも保護国扱いや併合など必要ありませんでした。
そのための日本の莫大な財政負担は、戊辰戦争の影響もありましたが、
日本本土の東北地方を蔑ろにし飢饉の遠因になったくらいです。
安重根さんのウィキを今回見て知ったのは彼を義士とみる立場の人が
日本の新右翼勢に多いことです。