13/06/27 00:31:51.11 YTCTG8HZ0
>>481
はっはっはw
サイコーの褒め言葉ですよw
元禄6(1693)年の初夏、現在の高津区久末から3人の若者が出立しました。
春の検地で加増された百石分の年貢減免を、土地の知行に求めるためです。
彼らが目指すのは、江戸四谷大番町 久末知行 佐橋佳純の上屋敷。
江戸四谷まで半日里。遅くとも3日もあれば帰って来れます。
ところがこの3人、待てど暮らせど帰ってきません。
業を煮やした名主たちは、今度は6人を送り出しました。
しかし、この6人も、行き方知れずとなってしまいました。
戻らぬ9人を探すため、今度は20人を送り出しました。
そしてこの20人も、行き方知れずとなってしまいました。
留守居たちが、これはおかしい、と思い始めたころ。
やっと、久末の谷戸にひとりの若者が帰り着きました。
若者は最後の20人のひとりで、一行の顛末を語りました。
四谷の佐橋邸に辿り着いた一行は、酒食の宴でもてなされたそうです。
ところが、この宴の酒には毒が盛られており、動けなくなったところを
女も子供も縛り上げられ、命ばかりはと泣き叫ぶのも構わず、
ひとりずつ順繰りに、首をのし斬りにされてしまったと。
若者は、それを伝えるためだけに生かされたと。
このときの19人を弔ったのが、現在の高津区、
久末の妙法寺境内にある久末義民地蔵尊です。
境内の板碑には、19人ひとりひとりの俗名が記されています。
ちなみに佐橋佳純、久末の伝説では狂い死にしたことになっていますが、
史実では加増も受け、80余命の天寿を全うしておりますw