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2、 ◆ 「日本共産党史」から消された「朝鮮総連」結成秘話 ◆
■ 【1950年、日本共産党の軍事方針のもと全国で襲撃と殺し、朝鮮進駐軍事件も激化】
1950年米軍施設を軍事攻撃したことから、GHQは日本に戒厳令を引き「朝鮮進駐軍」は米軍
により一掃され解体、逮捕され多くの朝鮮人が朝鮮に強制送還された。共産党も武器が没収
され、共産党は非合法組織となり、行動を制限されるなか、逃げ残った朝鮮人同志と警察署、
市役所等の襲撃軍事武装闘争を続けた。1951年1月9日、日本共産党は 「在日朝鮮統一民
主戦線」 を結成、在日朝鮮人の武装運動を支援。
1952年(昭和27年)の5月1日、第23回メーデーで、デモ隊と警官隊とが衝突したいわゆる、
“血のメーデー事件”がある。戦後、皇居前広場は“人民広場”と呼ばれ、たびたび集会場とし
て使われてきた。その日、政府は使用禁止とした。しかし、メーデー参加者たちは広場に突入、
朝鮮人がデモ隊の先頭となり警官隊と戦った。この事件では朝鮮人から多くの逮捕者(1232
名中130名が朝鮮人)を出した。広場になだれ込んだ2万人、うち5000人が在日朝鮮人だった。
1952年、大阪で起きた吹田事件(6月25日)、名古屋の大須事件(7月7日)でも、多数の逮捕
者が出た。吹田事件の朝鮮人の逮捕者は250名中92名が朝鮮人。 大須事件では269名中
150名が朝鮮人だった。こうした騒乱事件の多発に対し、大須事件直後の7月13日、共産党の
朝鮮人達は党の抗争闘争を批判した。つまり日本共産党の第一線抗争の実行部隊として、常
に朝鮮人が使われている場面が多く、朝鮮人内部からも批判が上がっていた。一方で、日本共
産党は全国軍事会議を開催し、軍事武装闘争と日常戦闘との結合を強調するなど、極左冒険
主義をエスカレートさせていった。
しかし、1955年(昭和30年)1月、各地で暴徒として軍事武装闘争を続けていた共産党もついに
「極左的冒険主義と手を切る」と発表。そして、この年5月25日、日本共産党籍があった朝鮮人
は共産党を離れ、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)に結集した。現在の「朝鮮総連」結成に
加わった。日本共産党は「朝鮮総連」結成に深く係わり、朝鮮総連の議長や幹部に日本共産党
の多くが幹部となり現在に至る。