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吉元玉さんの経歴
1928年 北朝鮮平安北道熙川生れる
1940年 11歳 旧満州(中国東北部)のハルビンに「慰安婦」として連行される
1942年 13歳 性病にかかって一時帰国したことがあるが、その後再び、中国北部の石家荘に。
1945年 15歳 中国東北部にて 梅素に感染し、ガンを患い子宮を切除
1945年 16歳 日本の敗戦により、引揚船で仁川に着いたが、北の故郷に帰ることができず、そのまま南の韓国に留まった。
「韓国に帰ることができましたが、私の知らないうちに祖国は南北が分断されてしまい、北側にある故郷には帰れません」←★
1950年 21歳 朝鮮戦争勃発
1953年 24歳 休戦 南北分断←★
1947年(18歳)当時の38度線は越えることの難しい境界線ではありません。
吉元玉お婆さんは家族連れでも越えられる国境線をなぜか越えられず、
「軍人の監視」から開放された時、南北分断を知りました。
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>自由な38度線 解放直後、米・ソ両国軍が進駐したとき、38度線は厳しい境界線ではなかった。
>1947年10月、38度線を越えて韓国に来る北朝鮮の一家族。
矛盾・疑問点まとめ
・家を出た時点での年齢が証言ごとに異なるのは何故か? (11歳/12歳/13歳/15歳)
・遠方に出稼ぎに行くことを親は止めなかったのか? (就労可能年齢は当時でも15歳)
・誘われた時の状況が異なるのは何故か? (工場で日本兵に誘われる/基地の外で作業中に朝鮮人に誘われる)
・官庁や企業に組織化されていない国民を対象とした保険体制が整えられてない当時、
就労可能年齢を満たさない違法且つ身寄りの無い売春婦が高額な手術を受けられたのは何故か?
・引揚船で仁川に到着した1945年当時、47年においてすら家族連れで用意に越えられた占領境界線を越えず、
「南北が分断されて北側の故郷に帰れなかった」と証言しているのは何故か?