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ヨアヒム・パイパー
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バルジの戦いでは、先鋒部隊として米軍陣地を突破することを期待され、
特別編成のパイパー戦闘団(SS第1戦車連隊のIV号戦車、V号戦車パンター計約70両、
第501SS重戦車大隊第1・第3中隊のVI号戦車ティーガーII20両の他、
SS第2装甲擲弾兵連隊第3大隊、SS第1装甲工兵大隊第3中隊、
SS第1装甲砲兵連隊第2大隊、空軍第84突撃高射砲大隊から成る戦闘団)を指揮し、
アントウェルペン攻略を目指す。
この時の戦功により1945年1月11日に柏葉剣付騎士鉄十字章を受章するが、
結局パイパーは米軍の頑強な抵抗と燃料不足、友軍との連携不足により
米軍に包囲され、重装備を廃棄して撤退する。
(作戦行動中にパイパー指揮下の部隊が捕虜のアメリカ兵多数を殺害する
マルメディ虐殺事件が起きた。
これが戦後の裁判で死刑宣告を受ける第1の理由になる。)
マルメディ虐殺事件
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裁判
戦後、パイパー戦闘団の内の武装親衛隊員は逮捕され、
1946年5月にマルメディでの殺人容疑で裁判が行われた。
しかし捕虜殺害がパイパーを始めとした独軍指揮官の命令によるものであると
立証されることはなかった。
戦闘中に偶発的に起きた事件であり、多数の捕虜が虐殺されたのは事実であるが
計画的に行われたものではない。
そのため、戦後「マルメディ虐殺犯」として告発された74名の隊員は、
冷静な審理の結果、多くが死刑判決を受けたがのちに減刑され1956年までに
全員が釈放されている。
なお釈放後、パイパーは偽名でフランスに隠匿していたが
1976年、正体が発覚し自宅に火炎瓶を投げ込まれて焼死した。