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もともと、琉球は日本に組み込まれるまでは独立国で成立したのは1429年でしたが
中国の皇帝から柵封という俸禄をもらい、いわば臣下の礼を尽くして帰りには沢山のお土産をもらう、柵封国家でもありました。
しかし、1609年、徳川家康から琉球征伐の許可をもらった薩摩藩の島津家久が、3000余の兵と100余隻の船という大軍をもって琉球王国を侵略し、尚寧王を捕虜にして薩摩に連行しました(“第1次琉球処分")。
琉球は、日本と中国のいずれにも従属することになりました。
それから1868年に明治政府が成立し、琉球を日本防衛上の要衝として確保するため、明治政府は1872年に琉球を鹿児島県の管轄からはずして琉球藩とし
1879年には内務郷・伊藤博文の差金で軍隊を派遣して首里城を占領、薩摩と清国への両属関係を清算して日本の版図に組み込んで
琉球処分を断行し琉球藩を沖縄県と改名したのです(“第2次琉球処分")。
この琉球処分の過程で明治政府は日本の軍隊を沖縄に駐留させ、1880年から皇民化教育にも着手し、軍事教練や神道の布教を進めました。
日本軍の駐留の開始は沖縄の基地化の伏線となって、のちの沖縄戦の悲劇の種を蒔く発端にもなりました。
日露戦争(1904年)では、沖縄からも「天皇の忠良なる臣民」として出征兵士を送り出しています。
沖縄に対する差別扱いが言語に限らず、姓名の呼び方や沖縄芝居や舞踏の制限など、日常生活のさざまな分野と風習に及んでいたことも、忘れてはなりません。
1952年に発効した対日平和条約で琉球諸島の行政・立法・司法権はアメリカ政府に委ねると規定したのです。沖縄は本土から分断されて切り捨てられたわけです(“第3次琉球処分")。
1960年代末~70年代初頭の沖縄の民衆の願いを込めた祖国復帰運動は裏切られてしまい、
、沖縄の施政権は日本に返還されたとはいえ、米軍が居座ったまま基地が維持どころか強化されることになったという意味で、またしても沖縄は本土から見捨てられました(“第4次琉球処分")
琉球王国から大和世、戦後はアメリカ世、復帰後また大和世になって、それぞれときの為政者の悪政に苦しめられたきた沖縄ですが
近年の沖縄普天間基地の移設問題における自民党政権や民主党政権の辺野古回帰案や徳之島分散案は、まさしく赤っ恥の上塗りのごとき“琉球処分"の最新版だと断ぜざるを得ません。
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