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沖縄の歴史から考える
沖縄は、明治維新後の1879年に強制的に日本に組み込まれるまで500年間、中国の王朝帝国に従属する「琉球王国」であった。
明治維新で日本が開国し、台湾や南洋、中国に向かって支配を広げる意志を持つようになると
その第一歩として1879年、沖縄を日本帝国の版図に組み入れるため、琉球王朝を廃止し沖縄県を設置する命令を下した。
これは「琉球処分」と呼ばれ、1609年の薩摩軍による侵略、「本土防衛」のために沖縄が「捨て石」にされた太平洋戦争末期の沖縄戦、
沖縄だけを本土から切り離し「基地問題」を固定化した戦後のサンフランシスコ条約と
ともに日本(ヤマト)が沖縄に行った数々のひどいことの一つに数えられ、沖縄の被害者意識を補強する材料となっている。
「琉球処分」に対して、清国は強く抗議した。
琉球王国の遺臣たちの中にも、清国から援軍を得て日本を追い払おうと考える人々がいた。
だが、清国は、その後の日清戦争で日本に負け、沖縄どころかその先の台湾まで日本に奪われ、琉球を助けることはなかった。
とはいえ清国の側には、日本が武力を盾に琉球を囲い込んだことを認めない意識も強かった。
尖閣諸島問題もまた、こうした歴史の延長にある。
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尚泰王
父の尚育が34歳の若さで病死、兄が13歳で亡くなったことから、尚泰はわずか4歳で琉球国王に就いています。
そして、1879年の琉球処分により王国は消滅してしまいます。
首里城の明け渡しを体験した人は昭和の初期頃まで健在で、数多くの証言が記録に残されています。
明治政府の琉球処分官が軍隊とともに首里城に来た際、戦いを挑もうとする意見もあったようです。
しかし、尚泰は「臣下の命をながらえたほうがよい」と述べ、城の明け渡しに応じました。
人々の泣き叫ぶ声の中、王の行列はまるで葬儀のようだったそうです。
以降、主として東京で生活します。そして、1901年に59歳で亡くなりました。
国家の侵略、併合、吸収が、つい最近行なわれたことに、あらためて気付きます。
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