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戊辰戦争のとき山口県人と熊本県人が福島県の会津でやったこと・・・・強姦・殺人・泥棒・ひえもんとり(会津人を殺して肝臓を生で食う食人行為)
戊辰戦争
薩長は”分捕り”と名付けて、農工商を問わず民間人の財産を全て奪い、民間人の妻と娘を拉致して強姦した・・。
百姓上がりで民度が低かった薩長の藩兵たちは会津若松城下で民間人女性を強姦し虐殺した。
薩長軍(新政府軍)は会津戦争の戦死者を「賊徒」として埋葬を許さず、
このために長期間に渡って放置された死体は風雨に晒され、
鳥獣に食い散らかされる悲惨な状況だったと言われている。
見かねた近所の村長が戦死者を埋葬したため、薩長軍に村長職を解かれた
事もあった(飯盛山に彼を顕彰する碑が立てられている)。
実際には疫病の要因になるという理由からようやく死体の処理が許されたのであった。
又、薩摩・長州の藩兵による会津若松城下での略奪・強姦・虐殺も激しく
(特に、長州藩士は気性が荒いことで、当時から有名であった)、
会津藩兵の死体から性器を切り取って口に含ませて放置したり、
薩摩藩兵が「ヒエモントリ」と呼ばれる食人行為を行ったという記録まである。
その野蛮さは、薩長の友軍である土佐藩兵や従軍僧侶が、
日記に批判的に書き記す程であった。
家財の分捕りは公然と行われ、
「薩州分捕り」「長州分捕り」と記して各藩競争で行われ、立て札が堂々と立てられた。
愛宕町の呉服店森田七郎右衛門の土蔵は、薩摩藩と肥前藩とで分捕り争いとなり、
不利になった薩摩の兵が土蔵に焼玉を投げつけて破壊するーという醜い騒ぎもあった。