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伝説の国士舘VS朝鮮学校は国士舘の連戦連勝の圧勝だった!
愛国学生のチョン狩に恐怖のドン底に叩き落とされた、所詮ヘタレな朝鮮ゴキブリ民族
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国士舘が最強だったのは昭和20年後期から昭和50年初期まで。
昭和50年初期からは入学試験の前の事前面接に合格しなくては受験ができなくな
ったため、ほとんどの不良学生が受験できなくなった。不良学生の入学を抑える処置
だったため、かつてのような名だたる不良学生はほとんどいなくなったようである。
それでも国士舘の威光はしばらく続き、昭和50年後半までは伝統が守られていた
ようである。 昭和30年代の国士舘高校は1学年30クラス以上もあるマンモス校
で、誰でも入学できたことから必然的に不良学生が多くなり、草地貞吾先生による
極右教育も相まってそれはそれは恐ろしい学校になったのである。また当時は新設
された国士舘大学の学生(ほとんど国士舘高卒)が街で大暴れしていたことも国士舘
の名前を全国に広めた。(国士舘学生による暴力事件が多発し新聞、テレビ報道され、
その体質が国会でも問題に取り上げられた。が、政治的影響力のある創設者をはじ
め、右翼関係者の力は強く、独自の教育が続けられたのであった)
舘長の柴田徳次郎先生は蛇腹を着たままキャンパスを馬で移動し、腰に銃剣を挿し
て闊歩するようなお方であり、国士舘の象徴。 マスコミも尻込みしていたのだ。
昭和58年に学校改革されるまで特色のある日本一のバンカラ学校であった。