13/02/28 08:28:47.55 AQjCLQsa0
知っているようで知らない
◆1561年 第四次 川中島の戦い(八幡原の戦い)
上杉謙信と武田信玄の両者は、信濃国(長野県)の領有をめぐって何度も衝突を繰り返していた。
永禄4年、上杉謙信は武田信玄が信濃の拠点として築いた海津城を攻めるために、大軍を率いて南下。
善光寺平(川中島)の妻女山に本陣を置いた。
一方の武田方は2万の兵を集めた海津城で軍議が開かれ、軍師・山本勘助提案による部隊を二分して
上杉軍本陣を背後から大軍で強襲し、押されて陣を出た所を武田本隊で殲滅する啄木鳥戦法の策が採択される。
ところが武田主力騎兵隊が腹一杯食事をしていた事(炊煙の多さ)で
近く進撃がある事を察知していた上杉謙信は、全武将に夜の闇にまぎれて妻女山を下山するよう命令していた。
結果として、両軍とも超濃霧の中で行軍を開始した。
すると謙信が狙ったのか偶然か、山へ向かう武田本陣と、山を下りていた上杉軍が
濃霧が一瞬晴れた時に至近距離ですれ違っていたという事態に陥る。
すぐさま乱戦、斬り合いとなり、壮絶な首取り合戦となった。
やがて上杉軍の背後をつこうとした別働の武田騎兵隊が異常事態に気付き、急ぎ戻り乱戦中の上杉軍に突撃。
この戦で上杉・武田の戦死者は約3000名、両軍の死傷率は80%をこえ、
濃霧のため両軍が鉢合わせするという偶然が生んだ、戦国史上類のない激戦であった。
戦後、武田信玄は川中島一帯を押さえ、上杉は信濃国境付近の一部を維持する事しかできず武田信玄の勝利となる。