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九州王朝は白村江でほぼ壊滅した。
王の権威は、畿内豪族が引き取って、
正統を名乗るようになる。
それと同時に、残党の知識人が畿内に移り、
新国家の構築を矢継ぎ早に行うことになる。
大宝律令の制定、
年号の制定、
国史の編纂
日本中の国庁の制定
条坊都市の建設など
7世紀終盤から8世紀に入った途端にどれほどの政策が、
一気に行われたかが解るだろう。
これは、すでに経験していた人間が、
多く参加し始めたからだと考えている。
それ以前にも畿内に豪族の宮はあったが、
それは国全体をまとめるほどの機能は持っていない。