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1951/10/19、国後・択捉両島は、サンフランシスコ条約で放棄したことを、西村条約局長は明白に説明しています。
西村答弁は、日本国内の四島返還論にとって都合が悪いので、
「西村条約局長は混乱してこのような答弁をしたのだ」とか、「まだ、日本は占領下だったので、本当のことが言えなかったのだ」
などと、ごまかしが行われます。
しかし、実際は、西村答弁だけではなく、草葉答弁や島津答弁も同じように、千島には国後・択捉両島が含まれていると説明しています。
さらに、サンフランシスコ条約が発効し、日本国が占領を脱した1年後の、1953/3/5の下田答弁でも、
日本の領土問題は歯舞・色丹と竹島だけであると、
国後・択捉が日本の領土で無いとの認識を示しています。
下田氏は外務省退官後、長い間、最高裁判所の判事を務め、最近は、プロ野球コミッショナーだったので、ご存知の人も多いでしょう