13/01/21 15:14:35.91 0
★小田嶋隆:あってはならないし、なくなりもしないものについて
一部で言われているように、体罰が蔓延している現状を追認する形で、それを合法化するのは、スジが違うと思う。
駐車違反が一向に減らない現状に追随すべく、路上駐車を解禁するのは、考えるだに本末転倒だし、
実際の方策としては「禁止されていてなおこれだけ蔓延している」という現実と、法執行(違反取り締まり)の
間に広がっている矛盾を根気よく埋めて行く、といったあたりが落としどころになるはずだ。
義家政務官は、「体罰と暴力、あり得る体罰とそうじゃない体罰の線引きが必要」と述べている。
この発言は、「ある程度の体罰は事実上認める」という意味に受け止められても仕方がない。
なにより「あり得る体罰」という言い方が、学校教育法で明確に禁じられている体罰に、事実上のゴーサインを出してしまっている。
一個人として考えを述べたということなら、それはそれで尊重されるべき見解であるのかもしれない。
しかしながら、政治家には立場というものがある。仮にも体罰を取り締まる所轄官庁である文科省の
高官がこんなことを言っていたのでは、現場はどうして良いかわからない。
この発言に先立って、義家弘介文部科学政務官は、今回の顧問による体罰を「体罰ではなくて暴力だ」と評している。
つまり、義家氏の認識の中では、「適切にコントロールされた体罰は暴力ではない」と判断していることになる。
また、義家氏は、「体罰とは生徒へ懲戒として行われるものだが、今回は継続的に行われた暴力という認識を持つべきだ。
物事を矮小化して考えるべきではない」 とも言っている。
一見、もっともな発言に聞こえる。
が、文面を良く読むと、政務官は、生徒を自殺に追いやった体罰を「体罰とは別の個人的な暴力」と定義することで、
体罰という普遍的な問題を、「一教諭の個人的な暴力の問題」に矮小化していることがわかる
(記事はこちら URLリンク(www.asahi.com))。
ひどい話だ。(以下略)
日経ビジネスオンラインから抜粋 URLリンク(business.nikkeibp.co.jp)