13/01/14 18:49:59.34 0
(>>1のつづき)
一方で、表現の自由やデモは大切であるという意見もみられたが、「『死ね』だの『ゴキブリ』だのと、徒党を組んで
叫び倒して人の心を侵害することを『権利』だとご立派に主張されてもへそが茶を沸かすだけです。人の『権利』を
『侵害する権利』なんざねーっつーの」という、あるまとめに付いたコメントに私は大きく頷いた。
この日本では、申請があればデモ自体は国民の権利として認められる。内容はどうであれ、だ。
しかし、ヘイトを撒き散らすだけのデモに社会的な価値を見出すことはできないし、それには周りの良識ある人々が
「NO」と云う必要があるのではないかと思う。
「デモにはそれぞれ主義主張がある。するのは自由だし、民意が動いたり政治が動く事もあると思う。けど、これは
酷い。韓国人も日本人も傷つけて…関係ない若者や子供たちも聞いてるのに…ただのストレス発散にしか
思えなかった」と云うのが、このデモに遭遇した大多数の意見であり、普通の人なら当然こう思うだろう。
私はTwitter上で、新大久保でまたしても反韓デモが行われていることを知った。辛く、悲しく、また腹が立つなどさまざまな
感情が噴き出して、冷静に見ていることはできなかった。居合わせた人々のツイートを目で追いながら、吐き気を催した。
レイシストをのさばらせて何も出来てない自分が歯がゆくなったし、嫌な目にあった人たちには申し訳なくって、
謝りたいような気持ちにもなった。でも、これらまとめのなかの韓流ファンや若い人たちのつぶやきを見て、安心した。
ネットの中の、日本の中の良心を感じることができた。
今、東京都はオリンピック誘致活動を行っている。しかし、オリンピックは差別を決して許さず、厳しく対応することでも
知られている。このような排外主義者たちがデモをする場所をIOCは選ぶだろうか。
最後に、このデモに関連したまとめのなかに「同じ日本人として恥ずかしい」との言葉が、何度も出て来た。
私は、この言葉にも少しの違和感がある。在特会を「自分とは違う、恥ずかしいもの」として他者化することは、
自分のなかの「差別する心」を見えなくしてしまうような気がするのだが、気にし過ぎだろうか。
あなたはこのデモが許せますか?(李信恵)(以上、抜粋)