13/01/14 11:59:24.30 Sz460VHCO
>>818
・広開土王碑
百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。
而倭、以辛卯年[391]來、渡毎破百殘、更□新羅、以爲臣民。
百済と新羅は高句麗の属国だったが、391年に日本が海を渡って攻めてきて百済を打ち破り、さらに新羅も打ち破って属国にした。
・隋書 巻八十一 東夷伝 倭国
「新羅百済皆以倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往来」
「新羅と百済は日本を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに日本を敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している 」
・宋書 巻九十七 夷蛮伝 倭国
興死弟武立 自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王(中略)…詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事
安東大將軍倭王
倭王武の時代に宋から使持節郡督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王の称号を受ける。
・三国史記 新羅本紀
倭国と好誼を通じ、奈勿王の子未斯欣を人質とした。均貞に大阿滄を授け、仮に王子として倭国に人質として送ろうとした。
・三国史記 百済本紀
(阿宰)王は、倭国と好誼を結び、太子の腆支を人質とした。太子であった扶余豊は、かつて倭国に人質となっていた。