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!!教科書に載せないため、日本人が知らない朝鮮の侵略、そして対馬が韓国領土だと言い張る根拠!!
■西暦1419年6月19日 応永の外寇(おうえいのがいこう)
李氏朝鮮の国王・太宗『李芳遠』 、そしてその子、韓国保有イージス艦にも名付けられた『世宗大王』こと世宗は
応永26年、倭寇撃退を名目にした対馬遠征を決め、 李従茂率いる227隻、17285名の軍勢を対馬に侵攻させた。
▼太宗『李芳遠』は号令の中で「古書によれば対馬は韓国の隷属」 「対馬は本当は我が国の土地だったに
違いないが、僻地にあったので今ではなぜか日本人が 住んでいる」などと根も葉もないことを主張。
▼この時期は対馬の有力者が明などに渡航し不在であることを知り、また同時に朝鮮国内の在留商人らを一斉に抑留するなど、
防備の弱体に乗じ、一般民衆を標的にした周到な計画で、民家1939戸を焼き払い、また104の島民を殺害。
この侵略の一報が日本本土(室町幕府)に伝わった際、元寇の再来かとの憶測が流れた。
▼しかし李従茂の軍は対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受け、尾崎浦まで退却、戦局は膠着状態に陥り、
朝鮮側は対馬の属州化などを要求する使者を送るが対馬側に拒絶された。朝鮮兵が弱兵と分かり、
日本側の報復が始まると、損害の大きくなった朝鮮側は対馬側の和平提案を受け入れ巨済島へ全面撤退。
▼朝鮮王朝『世宗実録』にも「敗戦」と自ら明記、将官も戦死。
朝鮮側の被害は日本の資料では死傷者2500以上で、正規軍同士での対戦では朝鮮軍は日本軍に全く歯が立たなかった。
退却後に日本側からの報復を怖れた朝鮮は翌年には日本と和解を目指し、回礼使として宋希璟が派遣された。
▽2005年(平成17年)6月17日、大韓民国慶尚南道馬山市では、毎年6月19日を『対馬の日』とする条例が宣布。
400人以上の市民が参加し宣布式が催された。根拠は西暦1419年6月19日の上記の応永の外寇である。
6月19日は、『討伐軍』が馬山浦から出航した日である。
▽2007年7月13日には、金成萬(キム・ソンマン)前海軍作戦司令官(予備役海軍中将)が、Korean National Security Netで
日本の防衛白書の竹島領有問題の記載に対しての反論および、対馬侵略計画を作成するよう主張している。
▽2008年には韓国国会議員50名による対馬島返還要求決議案が韓国国会に提出され、韓国国民の50%が支持している。