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自分のルーツ、自分と家族の人生を見ず知らずの人に「変えろ」と云われることに抵抗があり、不快に感じる
人もいるだろう。こだわらない人もいるだろうが、そこにこだわりたい人もいるのだ。そして、そこにこだわったから
平等に扱わないというのはおかしいと思う。
国籍が変わっても育ってきた環境やそこにまつわる思い出やルーツは変わらない、という考え方もあるだろう。
国籍を日本にしたとして、自分のルーツが尊重される社会であれば、もっと多くの人が日本国籍を選ぶかも
しれないな、とは考える。
しかし、帰化し日本国籍を取得してもなお続く故なき非難というものが存在する。
先日、「やっぱり帰化人を政治家にしたら反日にいそしむので、被選挙権剥奪すべきですね」というメンション
を受けた。自殺した政治家の新井将敬氏も、その出自について理由のない非難を浴びせられた。
ソフトバンクの孫正義氏に対しても同様のことがある。
帰化しても日本人として認めようとしない人も少なからずいる。
そういう意識を、まず変えなければいけないのではないか。帰化する人もいるし、そうしない人もいる。それが
当たり前に受け入れられる、そんな選択肢が多い社会は豊かな社会だと思う。自由に選択でき、それでも平等に
扱われ、差別をうけない社会は素晴らしいのではないか。
帰化したから平等で、帰化しないから不平等が当たり前、というのはやはりおかしいと思う。
何かを愛したり、大切に思ったりすることは「同じ」じゃなくても可能だと思う。私は日本が大好きだ。
だが、私は在日として、この日本を愛し、この日本で生きたい。
(李信恵)
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前回「生活を捨てて、どこかに『帰る』ということは、事実上は不可能だ」に対し、帰化という方法があり不可能
ではないと指摘しました。制度はあり可能だがやりたくないことは「不可能」と表現するのは間違いかと。
Hiroyuki Nishimura Hiroyuki Nishimura認証済み @hiroyuki_ni
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