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大和盆地の大湖について判明していることは、標高60m以上まで、縄文遺跡の存在があり、それ以下は、当時、湖面・湿地帯であったこと。
その後、1800年ほど前の弥生期・古墳期は、標高50m以上までが生活域であり、それ以下は湖面・湿地帯であったこと、などだ。つまり、
大和地域の50m線、60m線の周縁部には、多くの遺跡が散在するが、中央の平野部には、縄文・弥生等の遺跡はないということ。
それらの時代には、そこは、広く湖底であり、人が住めなかったのだから。
神武天皇の諸々の伝承地もまた、縄文遺跡の限界、標高60m線に、ぴたりと沿って存在する。これはつまり、
記紀の神武伝承が、標高60m以下は湖で、現在と違って人が住めない状態にあった、縄文晩期の物語、
ということ示しているわけだ。
この縄文期から1000年後の、飛鳥期・奈良期の記紀編纂者が、このようなことを計算して神武伝承地を偽作できはしないだろう。
そう、もし記紀が、後世の偽作なら、伝承地の中の一つぐらい、それとは知らずに標高60mから下の、縄文期の湖中に設定してしまってもおかしくはない。
にもかかわらず、記紀に記述されている神武伝承の諸遺跡は、標高60m線、すなわち湖の縁に、すべてが沿って存在しているのだ。後世の偽作ではなく、
より古い伝承を、記紀編纂者が、そのまま記載したもの、と考えるほうが自然だ。
誤解のないように記せば、こうした事実によって、神武天皇の実在が、証明されたわけでは、けっしてない。神武天皇の実否、その後の朝廷との関係などは、また別の問題だ。
ただに、地質学、考古学等の研究によって、記紀の記述が、裏付けられつつある、記紀の神武伝承には、史実の反映が見られる、という段階までは、確かに言える、ということにとどまるのだ。