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1984年、全共闘の闘士であり山谷の闘争にも携わっていた佐藤満夫によりシナリオ案が練られ、撮影が開始された。しかし労働者たちの生活に暴力団が
介在していることを描いたことから地元のヤクザに狙われるようになり、その結果1984年12月22日、佐藤は暴力団・日本国粋会(後の六代目山口組國粹会。
日本国粋会は暴力団であり、右翼団体でもあった)系金町一家西戸組の組員により刺殺された。
撮影は中断を余儀なくされるが、佐藤が遺したフィルムを元に有志により制作上映委員会が発足した。委員会により映画制作は、実際に山谷の労働者で
全国日雇労働組合協議会(略称は日雇全協)の創設メンバー山岡強一に託され、翌1985年より制作が再開された。
しかし明けて1986年1月13日、今度は山岡が暴力団日本国粋会系金町一家金竜組の組員に射殺された。