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幕末の大坂でも牛鍋屋は二軒しかなくまともな客は居なかったらしい。しかも
そこの主人でさえ豚を殺すことが出来ずに、時々適塾の連中が豚の頭と引き換えに
と殺の手伝いをしていたとか。
…その時大阪中で牛鍋(うしなべ)を喰(く)わせる処は唯(ただ)二軒ある。一軒は難波橋
(なにわばし)の南詰、(みなみづめ)一軒は新町(しんまち)の廓(くるわ)の側(そば)に
あって、最下等の店だから、凡(およ)そ人間らしい人で出入(でいり)する者は決してない。
文身(ほりもの)だらけの町の破落戸(ごろつき)と緒方の書生ばかりが得意の定客
(じようきやく)だ。何処(どこ)から取寄せた肉だか、殺した牛やら、病死した牛やら、
そんな事には頓着(とんじやく)なし、一人(ひとり)前(まえ)百五十文ばかりで牛肉と
酒と飯と十分の飲食であったが、牛は随分硬くて臭かった。
(中略)
或(あ)るとき難波橋(なにわばし)の吾々(われわれ)得意の牛鍋屋(うしなべや)の
親爺(おやじ)が豚を買出して来て、牛屋(うしや)商売であるが気の弱い奴(やつ)で、
自分に殺すことが出来ぬからと云て、緒方の書生が目指された。夫れから親爺に
逢(あつ)て、「殺して遣(や)るが、殺す代りに何を呉(く)れるか」―「左様(さよう)ですな」
―「頭を呉れるか」―「頭なら上げましょう」。夫れから殺しに行(いつ)た。此方
(こつち)は流石(さすが)に生理学者で、動物を殺すに窒塞(ちつそく)させれば訳(わ)けは
ないと云うことを知(しつ)て居る。幸いその牛屋は河岸端(かしばた)であるから、其処
(そこ)へ連(つれ)て行(いつ)て四足を縛(しばつ)て水に突込(つつこん)で直(す)ぐ殺した。
そこでお礼として豚の頭を貰って来て、奥から鉈(なた)を借りて来て、先(ま)ず解剖的に
脳だの眼だの能(よ)く?調べて、散々(さんざん)いじくった跡を煮て喰(くつ)?たことがある。
是(こ)れは牛屋の主人から穢多のように見込(みこま)れたのでしょう。
『福翁自傳』