12/10/03 15:52:02.51 BXF5TU7tP
>>711
尖閣の帰属に関しては1895(明治28)年に日本が正式に領有した後の1920(大正9)年、
魚釣島に漂着した中国漁民を助けてもらったとして
中華民国駐長崎領事が石垣の人々に贈った「感謝状」に「日本帝国八重山郡尖閣列島」と
明記されていたことが明らかになっている。
明代にも琉球側と記していた中国史料の存在が明らかになるのは初めて。
上奏文が収められていたのは、郭が書いた文書を集めた『石泉山房文集』。
このうち、帰国後に琉球への航海中の模様を上奏した文のなかで
「行きて閏(うるう)五月初三日に至り、琉球の境に渉(わた)る。
界地は赤嶼(せきしょ)(大正島)と名づけらる」と記していた。
現在の中国は大正島を「赤尾嶼(せきびしょ)」と呼んでいる。
石井准教授によると「渉る」は入る、「界地」は境界の意味で、
「分析すると、赤嶼そのものが琉球人の命名した境界で、
明の皇帝の使節団がそれを正式に認めていたことになる」と指摘している。
石井准教授の調査ではこのほか、
1683年に派遣された清の琉球使節、
汪楫(おうしゅう)が道中を詠んだ漢詩で「東沙山(とうささん)
を過ぐればこれ●山(びんざん)の尽くるところなり」
《現在の台湾・馬祖島(ばそとう)を過ぎれば福建省が尽きる》と
中国は大陸から約15キロしか離れていない島までとの認識を示していたことも分かった。