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尖閣諸島問題と日本の対応
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したがって明代の『順風相送』の中に釣魚嶼の名があり、冊封使の記録に釣魚台の名が登場するからといって、
尖閣諸島が中国領であった証拠にはならないのである。なぜなら台湾が中国領に編入されるのは、
清朝になってのことだからで、事実、明代(1461年)に編纂された官撰地誌の『大明一統志』(「外夷」)では、
福建省と台湾の中間に介在する澎湖島も琉球国に属している。明代、台湾はその属領ではなかったのである。
その事実は、清代に編纂された『大清一統志』でも、確認ができる。『大清一統志』では、台湾を「古より荒服の地、
中国に通ぜずして東蕃という。明の天啓の初、日本国の人ここに屯聚し、鄭芝龍これに附す。その後、紅毛荷蘭夷
の拠る所となる」としているからで、乾隆版の『大清一統志』では、わざわざ台湾を「日本に属す」と明記している。
その台湾が清朝に編入されるのは、康煕二十三年(1684年)。その台湾に設置された台湾府は、「●籠山」を管轄
区域の北限とした。そのため冊封使として琉球国に渡った齋鯤は、台湾を過ぎる際、●籠山を「猶これ中華の界の
ごとし」とし、「●籠山、中華の界」としたのである。