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■「次に生まれるときには日本に生まれたい」■
3度の来日で、日本の驚異的な発展を目の当たりにしたダル マパーラは、シンハラ人の自立のためには技術教育が欠かせないと考え、日本に留学生を派遣する財団を設立した。
大正3(1913)年、ダルマパーラは最後の訪日を行い、帰路、 満洲と朝鮮も訪れた。
日本はこれらの地に惜しみない資本投下を行って、急速に近代化を進めていた。
ダルマパーラは「日本が2、3年の内にこの地で完成させたことを、イギリスがインドで行ったならば優に50年を要していただろう」と、植民地を搾取の対象としかみないイギリスとの違いを指摘した。
ダルマパーラの活動によって仏教に根ざしたシンハラ人の民族主義運動が高まっていった。
イギリスの植民地当局はこれを警戒し、おりから発生した暴動の首謀者としてインドで5年 間もダルマパーラを拘束した。
弟も捕らえられ、半年後に獄死した。
それでもダルマパーラは運動をやめず、昭和8(1933)年、69歳でスリランカ独立の日を見ることなく、生涯を終えた。
「次に生まれるときには日本に生まれたい」とよく話していたという。