12/09/21 20:56:08.44 dSvX6DfiO
それぞれの「業界」というものはいずれも、我々日本社会の「ごく一部」にしか過ぎない。
ところが改革者が標榜する新自由主義の考え方は、日本社会全体の利益を上げるため、という理屈を建前とするものだ。
だから「改革者」対「抵抗勢力」
という構図は
「全体の利益」対「一部業界のエゴ」
と、読み替えられてしまったのだ。
しかも、その構図を外から眺める多くの一般の人々は、その一部業界の人間とは直接利害関係のない人々であった。
この「観客」に対して「全体の利益」対「一部業界のエゴ」という形でこの論争をひとつの「観劇」として提示した瞬間に、勝負は決まったも同然であった。
新自由主義の改革者が言う「全体の利益」とは、観客にとっては「自分の利益」となる構図だった。
これはもう正義を巡る公正な議論というよりもむしろ「私たちの利益のために、お前たちは失せろ!」というような話になってしまっていたのだ。
言うならば、全国民を巻き込む「いじめの構造」が、かの小泉・竹中改革を支持する熱狂的な世論現象の中にはあったということになる。