【中国】重慶爆撃で日本政府に賠償請求=中国国内で初の提訴at NEWSPLUS
【中国】重慶爆撃で日本政府に賠償請求=中国国内で初の提訴 - 暇つぶし2ch847:名無しさん@13周年
12/09/12 07:25:12.36 4CKw2ROD0
重慶ってのが味噌。
薄さん関連事件のごまかし狙いの話題づくり。
ちなみに今回の尖閣騒動もそういう側面もあると中国通のロシアが報道している。

848:名無しさん@13周年
12/09/12 07:25:57.84 pb3skz2X0
元寇の謝罪と補償の方が先だろボケ支那。

849:名無しさん@13周年
12/09/12 07:27:02.76 APSOFmdX0
重慶大爆撃は日本の誇りだ!
重慶大爆撃は日本の誇りだ!
重慶大爆撃は日本の誇りだ!

850:名無しさん@13周年
12/09/12 07:27:05.30 Bn9xq4VE0
このスレと外れたがw
朝日新聞昭和二十六年五月六日記事「マッカーサー元帥は四日の合同委員会で、次のように言明した。」

「台湾の法的地位についていえば、日本の多くの部分はまだ正式に帰属が決定されていない。ヤルタ協定、その他の協定による取り決めはあるが、
法的には台湾はなお日本帝国の一部である。連合国は日本の管理を米国に移管したと同時に、台湾を中国の信託統治下においたということができる」
(引用終わり)

そうです。マッカーサーは台湾がまだ日本領土であることをきちんと理解していたのです。中華民国軍はただ単に占領軍として進駐しただけです。
そうであるならば、昭和22年2月28日に始まった、三万人が虐殺されたといわれる2.28事件は、台湾人であっても純然たる日本国民が大量虐殺されたということになります。
スケールは通州事件どころではありません。
当時の朝日新聞でもきちんと見ていますと、台湾で異常な事態が起こっていることを報じ続けています。
また台湾にはまだ多くの日本人が帰国を待っていました。帰国する彼らと上海で同船した辻政信は、彼らから2.28事件の残虐さを知らされます。
多くの日本人は恐ろしい台湾アトロシティーを知っていたのです。
昭和27年に日華平和条約が結ばれます。日本は台湾は中華民国の領土だとは認めず、「放棄」したとあります。またその11条には
「日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は、サン・フランシスコ条約の相当規定に従つて解決するものとする」となっており、
そうすればあの2.28事件は両国の戦争状態において起こったものと理解できるでしょう。



851:名無しさん@13周年
12/09/12 07:30:30.92 Bn9xq4VE0
今、アメリカでは  大統領選だ ロムにーがんばれ.w
共和党アイゼンハワー大統領
「私は非常に大きい間違いをした、ある大統領の名前を挙げることができる。ルーズベルトは自分の信念や行動しか認めない、極めて自己中心的な人物である」
昭和三十年一月十七日当時の上院外交委員長ウオルター・ジョージ民主党上院議員と交わした会話の録音テープより

「(ルーズベルト)大統領の望まれる日本をして米国への先制攻撃を実行させる為、太平洋をカラにして全艦隊をハワイに引き上げました。
本日より10日後に迫った日本の攻撃を行わせるため、12月7日当日はレーダーを停止し海門を開け、日本の攻撃をいささかも妨げることはありません」
米海軍太平洋艦隊司令長官ハズバンド・E・キンメル1941年11月27日打電文より

「(ルーズベルト)大統領が希望される日本軍による先制攻撃を実行させるためのマニラでの準備を全て完了しました。
日本軍がパールハーバーに向かうのを一切妨げることはありません」
米陸軍極東部隊司令官ダグラス・マッカーサー1941年11月28日打電文より
 米国人ロバート・B・スティネット著「真珠湾の真実-ルーズベルト欺瞞の日々」の中の米国公文書
○オリヴァー・リトルトン生産相(英保守党内閣の証言1944年(昭和十九年六月)
 ・・・米国が戦争に追込まれたというのは、歴史を歪曲するも甚だしい。米国が余りひどく日本を挑発したので日本は真珠湾攻撃の止むなきに至ったのだ。
『ルーズベルト大統領と1941年戦争の形態と実際の研究』 を著しその中で、日本が真珠湾を攻撃するより数ヶ月前に、ルーズベルト大統領はアメリカ軍部をして
、海外駐屯軍に秘密に軍事行動を指令したと発表し、パール博士の指摘した点を裏づけた。チャールス・ベアート博士 アメリカの歴史・政治学者
「アメリカが日本人の権利を認めてさえいれば、戦争は起こらなかったはずだ」黒人運動の指導者デュボイス
「まさしくハルノートは、日本を鉄棒で殴りつけた挑発であった。」セオボルト米海軍小将
「もし我々が日本人を挑発しなかったら、日本人から攻撃を受ける事は決して無かったであろう」元米国大統領  ハーバート・フーバー(ルーズベルトの前任者



852:名無しさん@13周年
12/09/12 08:30:38.54 Bn9xq4VE0
日本海軍の撃墜王・西沢広義中尉  重慶爆撃←行ったでしょう  エースとは?キャンデーズ
ハートのエースが出てこない、野球でなく 敵機を5機以上 撃墜したのを言うw
 日本陸海軍中最高の撃墜数を八七機を誇る撃墜王である。台南航空隊、後に二五一航空隊などで活躍したエースである。ラバウルでの激戦にも勝ち抜き、昭和十九年十月フィリピンで第一神風特別攻撃隊
、関行男大尉指揮する敷島隊の誘導護衛機として戦果確認した後、特攻隊に自機を引き渡し、陸攻で基地に帰還するとき、敵戦闘機に襲われ還らぬ人となったのであるが、さぞ無念であったろう。戦闘機にさえ乗っていれば、
このようなことは彼に限っては無かったと思われる。
日本人を祭る廟
 あちらこちらの廟や祠に「日本人」が静かに祭られている地など、日本を除けば世界で台湾をおいて他にあるまい。
 嘉義県東石郷の副瀬富安宮では、日本統治時代の明治三十六(一九0三)年にこの村で亡くなった森川清治巡査を今も祭っている。学校をつくり、村の子供に読み書きソロバンや歌を教え、
衛生環境の整備まで身を粉にして働いた森川巡査の姿を、村人は忘れられなかったという。
 台南市同安路の鎮安堂飛虎将軍廟。昭和十九(一九四四)年に村に来襲した米軍機の迎撃に向かった杉浦茂峰少尉のゼロ戦が被弾。村に墜落しそうになった。しかし杉浦少尉はパラシュート脱出を選ばず、
機首を立て直して畑に突っ込み、村人に被害を与えなかった。
 一部始終を見ていた村人は、自分の命よりも村人の安全を思った杉浦少尉を神とあがめ、廟に祭った。
 高雄市紅毛港の保安堂では、名も知らぬ日本軍の艦長のものとされる遺骨が祭られている。日本軍艦の模型をご神体として、漁民たちが海の安全や大漁を願って朝晩に祝詞の「軍艦マーチ」にあわせてお祈りをしている。漁民たちは実に真剣だ。
 戦後六十年を経ても台湾の人たちが手を合わせる廟や祠。日本人こそ感謝せねばならない。

853:名無しさん@13周年
12/09/12 08:48:38.94 Bn9xq4VE0
中国軍と日本軍の性格を大ざっぱにみるなら、次のように言うことができます。
 中国軍が通った地は至る所、はげたかの大軍が通ったように略奪されました。さらに彼らは占領地域を去るとき、日本軍に何も残さないようにするため、「焦土(しょうど)作戦」を取りました。
 つまり退却のたびに、道路や工場、橋、潅漑施設、その他の施設を次々に破壊したのです。そのため中国軍が通るところすべてが荒廃していきました。彼らの行動の特徴は、略奪と破壊だったのです。
 それによって中国経済は破壊され、農業も工業も壊滅的被害を受け、人民は苦しむばかりとなっていました。とくに悲惨だったのは、民衆の大半を占める農民たちでした。
 一方、そのあとにやって来た日本軍は、当初から農民たちの救済と、中国経済の再建に取り組んだのです。日本軍が占領した地域は、中国本土の人口の約四〇%、また耕地面積の五四%に及びましたが、
日本はすぐにその地域での農業再建、道路や潅漑施設の復興、工場の再建などに取り組みました。
 日本は中国の住民の救済、治安維持、戦災復興などに取り組んだので、それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、日本軍を熱烈に歓迎しました。統率がとれ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、彼らは生まれて初めて見たからです。
 本当の「人民解放軍」は中国軍ではなく、日本軍だったのです。
 日本が占領地域でとくに力を入れたのは、農民の救済でした。日本政府はすでに一九三八年に中国での農業復興の計画を発表し、実行に移しています。それは日本・満州・支那(中国)の三国が相携えて、互助関係を築くことを目的としたものでした。
 それにより、日本の占領地域での農業は飛躍的に増大しました。日本人技術者が中国農民に、日本の農業技術を提供していったからです。もちろん戦時下のため、悪戦苦闘はありましたが、それでも日本の努力は多くのところで実を結んでいました。



854: 忍法帖【Lv=2,xxxP】(1+0:5)
12/09/12 08:49:56.74 4ar0weXtO
>>852
日本軍最強のエースは岩本徹三だろ?
中国戦線から終戦まで戦い抜き202機撃墜。
本土上空でB29の単独撃墜、千葉県の本土防空戦でも敵戦闘機を多数撃墜している。
西沢さんも凄いけど結果は岩本さんの方が上。

855:名無しさん@13周年
12/09/12 08:50:33.33 bRfNK2oa0
もう終わった話w
1円もやらんよ?

856:家政夫のブタ
12/09/12 08:50:44.48 9I6y0eQo0
無差別爆撃で被害を訴えたんなら、今から無差別爆撃してやったらいいんじゃない?w

857:名無しさん@13周年
12/09/12 08:51:19.78 9MNvdpKI0

これが通るなら、日本各地の無差別爆撃や東京大空襲で死んだ非戦闘員についても
訴えていいことになるよ。


858:名無しさん@13周年
12/09/12 08:52:49.43 MDgxBKTC0
ノーモア チベット!

859:名無しさん@13周年
12/09/12 08:54:09.92 Bn9xq4VE0
ローマ法王は日本の行動を支持した
 もともと、中国の内戦に巻き込まれたかたちで、中国内部に足を踏み入れた日本軍でした。しかし踏み入れた以上、日本は、そこが共産主義国家になってしまうのを防ぐため、多大な尽力をなしました。
またそこに、欧米の侵略や搾取の餌食とならない自立した民主的国家が誕生するよう、手を差し伸べたのです。
 日本は中国を「自分の領土」とするために戦っていたのではありません。日本は中国の「領土保全」をかかげ、誰からも侵略されない、中国人による中国人のための安定した国家がそこに誕生することを目指したのです。
そして日本と手をたずさえて、アジアを共産主義から守る防波堤になること、そこに一大経済圏が生まれることを目指しました。
 ですから、日中戦争(支那事変)が始まった年である一九三七年、一〇月に、当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ一一世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、
全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけました。法王は、
 「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」
 といった内容の声明を出しています。


ローマ法王ピオ11世。日本軍の行動を理解し、
全カトリック教徒に、日本軍への協力を呼びかけた

 この声明は当時の日本でも報道されました(「東京朝日新聞」夕刊、昭和一二年一〇月一六日および一七日)。新聞は、
 「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」
 と歓迎の意を表しています。ローマ法王がこのように日本の行動に賛意を表してくれたことは、欧米の誤解や反日主義に悩まされてきた日本にとって、非常にうれしいことでした。
 けれども、そのピオ一一世も、やがて一九三九年には世を去ってしまいます。そのため欧米の反日主義や、日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかったのです。




860:名無しさん@13周年
12/09/12 08:58:09.62 Bn9xq4VE0
鄧小平(Chinese,出自:四川省宏安県の客家系。1904年生。抗日戦志士として指揮を執り4万4千の日本軍を殺害し毛澤東・蒋介石に褒賞される。その後内戦時に国民党軍兵士3万5千を殺戮指揮。
カンボジャ共産党Khmer Rouge era・ Khmer Rouge Pol Potの200万大虐殺を支援したといわれる。文化大革命失敗の批判を甘んじ、1988年天安門大混乱でまたまた失脚。
彼が一度ニコっと笑うと千人死ぬと言われ恐れられた。1997年香港光複を目前にして北京にて他界享年92歳)。鄧屑平
1949年10月1日、蒋介石の国民党との内戦に中国共産党の毛沢東が勝利して、中華人民共和国が成立した。この日、北京の天安門広場で毛沢東は閲兵式を行ったが、国民党に反対して八路軍に参加した劉善本師長は、
隊長機に乗って飛行編隊群を指揮して天安門上空を飛び毛沢東の検閲を受けた。
この飛行により中国の人民空軍部隊の存在を世界に示したのであった。
 瀋陽でも、この日同様な式典が行われたが、林少佐も隼戦闘機に乗り、他の日本人教官は九九式高等練習機を操縦して検閲を受けた。この時林少佐はまるで「ブルーインパルス」のように多くの曲技飛行を披露している。
又、牡丹江の航空学校では、所有する100機以上の飛行機が地上に並べられた。
国民党軍から捕獲した米空軍のP-51戦闘機や、AT-6、セスナ機なども並べられたが、まるで旧日本軍の飛行機が勢ぞろいした格好であったというから、なんとも奇妙な風景?であったろう。

林少佐が参加し、1946年3月に創設された「東北民主連軍学校」は、1949年10月に中華人民共和国が成立したときには3年半を経過していたが、
約160名を養成、後で14名の女性操縦士も養成されたという。
これらの学生達は空軍創設のため、或いは増設された航空学校の教官として、
さらには朝鮮戦争の発生とともに実戦部隊の指揮官として活躍したのであるが
、そこで英雄的な活躍をした張積慧,鄒炎などは林少佐が最初に教育した「甲班」「乙班」35人中の一人であったという。又、同時に多くの整備士をも養成した。



861:名無しさん@13周年
12/09/12 09:02:15.21 47DD49MAO
ばかばかしい

こんなのまともに掛け合うなよ
記事にすんなバカ記者め

日本は戦争に関する全ての処理は終わっている

これからは不当にかすめ取られた領土を取り返す聖戦だ

まず竹島、次に北方4島、それから樺太だ


862:名無しさん@13周年
12/09/12 09:02:22.04 Bn9xq4VE0
約160名を養成、後で14名の女性操縦士も養成されたという。
>>この弟子か 先日乗り込んだ宇宙飛行士だろ w確か空軍のパイロットだったな

863:名無しさん@13周年
12/09/12 09:04:05.11 dypKj5AF0
バカじゃねーの
逃げ回って市街地に陣地作った毛沢東のバカに請求しろ

864:名無しさん@13周年
12/09/12 09:05:48.44 bA06Gess0
>>856
もちろん、東京大空襲などはアメリカを訴えてもいいんだけど、大事なことは
東京大空襲が重慶爆撃などを言い訳にして行ったことだということ
重慶爆撃などはきわめて小規模だったのにそれと東京大空襲を並べるのが米国のプロパガンダ

865:名無しさん@13周年
12/09/12 09:06:05.08 Bn9xq4VE0
by佐藤  田母神閣下前空軍幕僚長の先輩。
「林少佐が林彪などに協力を約束して4年間、更に日本人スタッフの大半が帰国する1953年までの3年余、異国での敗戦・動乱の中で死亡者は数人に過ぎない。多数の軍人集団が、
自由意志の下にまとまって行動して所期の目的を達成したケースはまれであった」と新治教授は書いているが、林少佐の下に一致団結して行動し、新生中国空軍創設の約束を果たした、
律儀な旧帝国陸軍軍人達の姿が髣髴としている。その反面、帰国した彼らを待っていたものは、第2次世界大戦終結後に生じた自由主義諸国と共産主義諸国との対立、
いわゆる東西冷戦下において、新生中国とは水と油の関係に位置する自由主義国の日本であったから、帰国後の彼らの立場には微妙なものがあったに違いない。

 世界を制した米国自身でさえも、空軍が独立したのは第2次世界大戦後であり、その後急激に「進化」するのだが、戦後に創設された「航空自衛隊」は、旧陸・海軍の航空部隊が併合された上、
独立した空軍戦力として発足したのは幸運なことであった。
 新治教授は「中国空軍は、当初林少佐が教育し、短期間に戦力化した軍隊であり、そこには良好な教育をすれば即刻能力向上できる中国国民の潜在力がある。
 若い中国空軍軍人達は自尊心からかそれを言いたがらないらしいが、中国空軍指導者達は、林らに対して、今でも決して忘れてはならない『中国空軍の友』として尊敬し、
英雄とみなしているのである」と本論文を締めくくっている。

 上海で中国の空軍大佐たちと酒を酌み交わした私は、同席した現役空軍大佐達に林少佐のことを問いかけたのだが、
彼らはよく理解していたから林少佐を尊敬していたと思う。




866:名無しさん@13周年
12/09/12 09:07:36.94 mbggvNXY0
>864
あいつはもっと山奥だよw

867:名無しさん@13周年
12/09/12 09:08:54.85 Bn9xq4VE0
岩本徹三だろ?
wもう一人いるな


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