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新京陸軍経理学校第五期生記念文集編集委員会事務局編『追憶』上(1985年,同事務局)所収の宮谷重雄氏の手記
(p146~147)
やがて洛陽作戦が始まった。月余で洛陽が陥落してホッとしていると、数日後、師団の後方参謀が直接呼びに
来たので、何事ならんと出頭すると、
「宮谷少尉は、至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ。ついでに洛陽で女も集めて来い」
という命令である。もうこれは、メチャクチャである。大学を出て、なんの因果でピー屋造りをさせられるのか、
その上女衒まがいの女集めまでさせられたのである。何とも情けない思いであったが、命令である。同行していた
大工上がりの軍属に慰安所造りの指示を与え、塩を二、三俵トラックに積んで、洛陽市内に女狩りに赴いたので
ある。どうもこの作命は、後で聞いたところによると、包頭での慰安所造りの成功が効いていたそうである。
ともかく、洛陽をトラックでグルグル回り、私のカンも良かったのか、二、三軒で十数人の女集めに成功して、
部隊に連れてくることができたのである。「あいつは物集めがウマイ」という評判が立って、その後、随分とこき
つかわれるキッカケとなってしまった。どうも人間、何が不幸の種になるか分からないものである。
〔中略〕
兵団は武漢、長沙を経て衡陽から桂林に向かうことになった。ちょうど、桂林の中間地点の村落で、作戦準備の
ため長期駐屯することが決まり、旅団は分散して宿営することになった。数日たつと、また作戦参謀が私を呼び出
した。そしてまたまた、慰安所を作れ、衡陽で女を集めてこいという命令である。私もつくずくいやになったが、
作命には背けない。