12/07/12 07:37:08.16 0
いじめは、やった方が学校に残り、やられた方が学校を去るのが社会常識となっています。
なぜ、そうなっているのでしょうか?
我々が、いじめなどよりも学校の秩序を大事だとする考えに染まっているからではないでしょうか?
大抵のいじめは、多数が少数をいじめます。すなわち、いじめられた方よりもいじめた方が多数派です。
どっちが転校すべきかとなった場合、多数派の方が少数派より有利です。
そして、学校の秩序の維持を最重要とするなら、少数派を排除する方が簡単です。
例えばクラスの大部分がいじめに荷担していた場合、正義を実行しようとするなら、
いじめを行ったクラスの大部分の生徒を転校させなければなりません。
しかし、そんなことを実行したら、学校は社会からの大きな批判にさらされるでしょう。
これに対し、いじめられた方が転校するなら批判はされません。
ならば学校がやるべきは正義の実現ではなく、批判を避ける行動に出るのが当然ではありませんか。
いじめ問題における「君主」とは、学校教師や子供の親、そして世論です。
その「君主」が、正義より秩序を優先し、いじめられた側よりいじめる側の自由を尊重している。
そんなことでいじめが解決するわけがありません。
我々もまた邪悪に染まり、いじめの共犯者となっている。
そうした自覚が国民全体に共有され、いじめられた側が転校するのが当然とする社会常識を変えない限り、
いじめはこれからも続き、犠牲者は出続けて、自殺者が出たら話題になるだけで終わるでしょう。(抜粋)