12/07/07 00:43:19.27 vj6wqi7V0
>>38
仁和地震887 貞観地震(311地震類似)の18年後
五畿七道諸国を揺るがす大地震が発生した。このような「五畿七道大地震」は南海道沖を震源とする巨大地震と推定される
『日本三代実録』には、京都において諸司の舎屋や民家の多くが潰れ死者も出し、五畿七道諸国に亘り官舎の倒壊、
津波による多数の溺死者を出したとする記録がある。余震は8月末ごろまで記録されている。
特に摂津において津波の被害が甚大であったとされ、京都では長い地震動があったなど近畿地方の
震害は宝永地震をも上回る様相を呈している。淡路島の洲本藩士が編纂した郷土史である『味地草』には
仁和三年七月の地震により海に突出していた砂嘴が津波で失われたことが記される
一方で愛知県稲沢市の地蔵越遺跡から平安時代前期の層から噴砂の痕跡が確認され、
東南海地震の震源域で地震があったことを示唆している。さらに東海地震震源域である
静岡市の上土遺跡でも地震の痕跡が発見されている。
静岡県富士市浮島ヶ原低地において760年-1020年の間の層に水位上昇の痕跡が認められ、
この間の断層活動が仁和地震に相当する可能性も考えられている。
また、地震被害を受けた国が30余に上ると見られ、京都における数尅(約2時間)以上と見られる
長い地震動は広大な震源域と長い震源時間をもつ多重地震でかつ、その後の活発な余震活動を窺わせ、
宝永地震の約1時間継続した状況の記録に似る。『扶桑略記』には同日に北八ヶ岳と推定される
岩雪崩の発生が記され、『日本紀略』の記録にある翌年の千曲川の堰止湖による洪水を誘発したと
推定されることから、震源域は宝永地震のように広域に亘った東海・東南海・南海連動型地震である可能性は高いとされる[。
さらに礫岩層の堆積物から宝永地震を超えるM 9クラスの超巨大地震であったとする説もある