12/05/27 11:28:10.91 zy4r6XbsO
>>202
■なぜ、社会保障の救済は、「家族(扶養)を通す世帯単位」ではなく、「個人単位」でなければいけないのか?
▼『困窮の問題を、「家族」に縛りつけ、抑え込む社会構造は、《困難の背景にある問題の見える化》を阻害し、問題の解決を困難にさせ、そこから新たな弱者を作り出す』。
▽個人や家庭自体の問題に目をふさぐ ▽背景にある社会的な問題に目をふさぐ
そこには重い現実がある。個人単位から見なければいけない。
▼「社会の構造が問われなくなってしまう」という問題。
社会(日本で言えば歴代自民党政権の政策)を、批判的な視点から見る、という視点が揺らぐ。
(問われないからこそ、戦後、貧困率を調査した政権は無かったので、民主党政権が政権交代後に公表するまで、問題が隠蔽されてきた)
▼社会保障が絶対に侵してはならない《社会的排除》
『「見える化」がされなければ、「取り上げられない」ことで、
「今まで無かった事・実在しない人間」にされ、《人間ブロイラー行き》。当然、対策も講じられず』。
「貧困女性」が典型例。「貧困女性」という言葉が最近発生したことで、あたかも「今まで無かった」かのように思われがち。
▼なにより、国民1人1人を救済するのが、国家の責務・政策の機能である。
それを「自助第一」という名の自己責任で、「扶養」という形で家族に負担を押し付けるのは、もはや国家の体を成していない。
■《人間ブロイラー行き》の《五重の排除》…教育から、企業から、家族から、公的から、自分自身から
①教育からの排除
②非正規雇用の拡大で、企業福祉からの排除
③貧困者を家族が抱え家族も貧困になったり、単身世帯で、家族福祉からの排除
④自助第一で、公的福祉からの排除
そして最後に辿り着くのが ⑤自分自身(尊厳・自尊心)からの排除
『貧困は、自己責任が問えない。なぜなら、貧困を無くす(救済する)ことは、政治の責務・政策の機能だから』
■《社会的排除》
企業、学校、家族などとの繋がりが薄く、社会から孤立しがちな状態を指し、欧州では貧困対策の根本問題として位置付けられている。