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ドイツ人医学者エルビン・ベルツ 「伊藤博文をしのぶ」
『伊藤が、人もあろうに韓国人に暗殺されたことは、
かれが日本における韓国人の最上の知己であっただけに、いっそう悲劇である。
日露戦争の後、日本が韓国に干渉の手を差しのべたとき、 思いがけない抵抗に突きあたった。
暴動と日本人殺害は、いつ果てるともみえなかった。
そこで東京の軍部と新聞は、思い切った処置と、武力による圧制を要求した。
しかし伊藤は、穏便な出方を支持したのである。
かれは、腐敗し切っていた韓国の国家制度に有益な改革を加えることにより、
日本の統治下にある方が優っていることを、韓国民に悟らせることができると信じていた。
…… ヨーロッパでは、韓国における日本側の過酷な仕打ちについてのみ聞かされているが、
学校を建てたり、 合理的な農業や養蚕を教えたり、鉄道や道路や港湾を設けたり、
勤勉で熟練した日本の職工や農夫の手本を示したりして、日本側の挙げた業績については、
何も知らされていない。
しかし筆者は、3回この韓国を訪れて、親しくその事実を確かめたのである。
…… いつか韓国民自身が、恐らくこの暗殺を悔やむことだろう。
― だが、日本にとっては、伊藤博文は掛替えがない。
その老練無比の政治家を、国家は失い、無二の信頼すべき顧問を、天皇は失った』
ーアメリカの鏡・日本ー ヘレン・ミアーズ
1910年、日本が韓国を併合したのは(韓国の)新皇帝が「請願」したからであった。パールハーバー以前は、
日韓関係について語る歴史家は、日本が欧米列強から教わった国際関係の規則を、実に細かいところまで
几帳面に守っていた、といってほめるのだ。トリート教授によれば、日本は「一つ一つの手続きを
外交的に正しく積み上げていた。そして、・・・宣言ではなく条約で、最終的な併合を達成したのである。」
事実、列強の帝国建設はほとんどの場合、日本の韓国併合ほど「合法的」手段を踏んでいなかった。