12/05/10 21:07:25.32 9LzemYRZ0
>>632 日本国民としてりっぱに戦った。
敵が沖縄に攻撃開始以来、陸海軍とも防衛戦闘に精一杯で、
県民を顧みる余裕は殆どなかった。
しかし、私の知る限り県民は青壮年の全てを防衛召集に捧げた。
残りの老幼婦女子は、相次ぐ砲爆撃で家屋と全財産を焼き出され、
軍の作戦の邪魔にならない小防空壕に避難、しかも爆撃、風雨に
晒される窮乏生活にあまんじた。
しかも若い婦人は率先して軍に協力し、看護婦、炊事婦はもとより、
砲弾運び、斬り込み隊をを申し出る者すらあった。
所詮、敵が来たら老人子供は殺され、婦女子は拉致され毒牙にかか
ってしまうと、親子生き別れになり娘を軍営門に捨てる親もいる。
看護婦に至っては、軍移動に際し、衛生兵は既に出発した後なのに、
身寄りのない重傷者を助けて、その行動は真面目で一時の感情で動い
ているとは思われない。
更に軍の作戦大転換があり遠隔の住民地区が指定されると、輸送力が
ないのにもかかわらず、夜間、雨の中を自給自足しながら移動するものもいた。
要するに、陸海軍が沖縄に進駐して以来、県民は終始一貫して物資
節約を強要され、ご奉公の心を抱き、遂に勝利する事無く、戦闘末期に
は沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した。
食料は六月一杯を支えるだけしかないという。
沖縄県民はこのように戦った。
沖縄県民に対して後世になっても特別の配慮をお願いする。