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■百済(隋書 百済伝)
>「百済百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。」
『百済の先祖は高句麗国より出る。そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人(百越人)もいる。』
■新羅(梁書 新羅伝)
>「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」
『新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者-ヘブライ古代ユダヤ人?)の苗裔である。
そこの人々は華夏(中国最初の王朝夏人-現代の漢族とは違う)、高句麗、百済に属す人々が雑居している』
百済王族の祖は扶余とされているが、現代朝鮮人とは関係ない
穢族の集団(扶余・高句麗・沃沮・穢貊)
扶余(ふよ、プヨ、부여〔朝:buyeo〕、扶余〔中:fúyú〕)は満洲に存在した民族の一つ。
遅くともB.C. 238年 ~ 494年には同地に同名の国家を形成していた。その版図は、中国三国時代には、
万里の長城より北、南は高句麗(こうくり)に、東は挹婁(ゆうろう)に、西は鮮卑(せんぴ)に接し、
方約二千里(三国時代の一里は、約450m)の範囲に及んでいたという。
夫余、扶餘、夫餘とも表記される(「餘」は「余」の旧字体)。
中国史料によれば、扶余族は、穀物には適しているが果物は余り育たない土地に定住し、
勇敢だが他国への侵略はせず、歌舞飲酒を好み、慎み深く誠実であったと記録されている。
しばしば鮮卑の攻撃を受けて衰亡し、最後はツングース系の勿吉によって滅ぼされた。
扶餘は定住していた点からツングース系と考えられていないように思われます。
『魏書』によると、勿吉と扶余は異なる言語を話す民族。
↓こっちが朝鮮人の祖先
(ゆうろう)挹婁-外満州(現在のロシア連邦沿海地方)の松花江流域に居住した。
※前漢から後漢滅亡までの四百年以上も扶余に臣従
半島に南下移住してきたのは、最も早く見て7世紀以降のこと。