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現代朝鮮人は、日本となじみの深い、古代新羅や百済とは何も関係ありません、
古代高句麗に一部の朝鮮人部族(まっかつ)が臣従してて共同で攻めただけ
481年頃。高句麗〔こうくり〕(靺鞨〔まっかつ〕軍を含む)が新羅〔しらぎ〕に侵攻し、7城を奪取。彌秩夫(浦項)まで進撃。
507年頃。高句麗〔こうくり〕(靺鞨〔まっかつ〕軍を含む)が百済〔くだら〕に侵攻し、漢城を包囲。撃退されて退却。
698年に中国の東北からロシア極東に住んでいた「靺鞨(まっかつ)」が高句麗の遺民たちと共に唐軍を退け振国を樹立。
713年に振国の大祚栄が唐から渤海郡王に封じられ、以後、渤海と称した。
(ゆうろう)挹婁-外満州(現在のロシア連邦沿海地方)の松花江流域に居住した。
※前漢から後漢滅亡までの四百年以上も扶余に臣従
220年 - 226年:漢代以降は夫余に従属していたが反乱を起こす。独立し魏への朝貢を行った。
(もつきつ)勿吉-現在の松花江から長白山一帯に居住していたと思われる。
(まっかつ)靺鞨
600年以降中国へ一部の部族が降り、半島浸透の素地が生まれる
※遼寧省の朝陽市(柳城):百済の最初の都で、帯方郡の故地。
604年:高麗と戦うが、その軍勢は幾度も敗戦。渠帥の突地稽が自分の部(粟末部)を率いて降り、
右光祿大夫の官位を授かり、柳城(遼寧省朝陽市)に居住した。
618年:突地稽(度地稽)は朝貢をしたため、唐はその部落をもって燕州を置き、突地稽を総管とした。
627年:突地稽は右衛将軍に拝され、唐の国姓である李氏を賜った。
676年:(突地稽の子)謹行は吐蕃軍数万を青海で破り、鎮軍大将軍・行右衛大将軍を拝命、燕国公に封ぜられる。
※一方、白山部はもともと高句麗に附いていたが、唐が高句麗を滅ぼすと(668年)、唐に降った。また、
汨咄部,安居骨部,号室部などは高句麗が滅亡すると、微弱となって分散し、渤海国に流れた。
ただ黒水部は強盛であり、16部に分かれていた。