12/03/30 14:20:20.27 0
(>>1のつづき)
次に「被害者遺族の身になれw」と書いた人に訊きたい。ならばあなたは、本当に被害者遺族の
思いを想像できているのかと。
自分の愛する人が消えた世界について、確かに想像はできる。でもその想像が、被害者遺族の
今の思いを本当にリアルに再現しているとは僕には思えない。あなたはその思いを自分は本当に
共有していると、胸を張れるのだろうか。ならばそれこそ不遜だと思う。
被害者遺族の思いを想像することは大切だ。でももっと大切なことは、自分の想像など遺族の
思いには絶対に及ばないと気づくことだ。犯人への恨みや憎悪だけではない。多くの遺族は、
なぜ愛する人を守れなかったのかと自分をも責める。その辛さは想像を絶する。その思いを
リアルに想像することなど、僕にはできない。とてもじゃないけれど、「遺族の身になれ」などと
軽々しく口にはできない。
その前提を置きながら「自分の身内が殺されてから言え」とか「自分の子どもが殺されても
同じことが言えるのか」と書く人に言うけれど、もしも僕の身内が誰かに殺されたら、僕はその犯人を
激しく憎むだろうし、死刑にして欲しいと思うかもしれない。当たり前だ。だってそのときの僕は当事者に
なっているのだから、スタンダードが変わって当然だ。
でも今は当事者ではない。当事者には当事者の感覚があるし、非当事者には非当事者の感覚や
役割がある。もしもあなたの友人が、「身内をアメリカ兵に殺されたイラク人の気持ちを想うと
アメリカが憎くて仕方がないので報復してやる」と言ったなら、あなたはきっと「だけど現実におまえは
イラク人でもないし家族をアメリカ兵に殺されてもいないじゃないか」と止めるはずだ。
もう一度書く、僕は今、被害者遺族ではない。もしも遺族(当事者)になったなら、今とは違うことを
考えるかもしれない。でも今は非当事者だ。だから今思えることを思う。
そのうえで、光市母子殺害事件について、ひとつだけ思うことを書く。生後11ヵ月の夕夏ちゃんの
頭を、元少年が床に叩きつけたとの事実をめぐる認定だ。
確かに無期を宣告した一審・二審では、「幼児を頭上から思いきり床に叩きつけた」などと
事実認定がなされている。(>>3-10につづく)