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■よく中国人は、「琉球は、中国に朝貢をしていた。そして中国は琉球の内政に干渉しなかった。」と言う。
中国は、琉球の内政に干渉しなかったというが、できなかったのです。中国に内政干渉をさせなかったのは、薩摩藩の支配があったからです。
中国の使節は、毎年やってきて、琉球に半年間滞在したが、連日、宴会を催し、琉球の内政に関心をもたせなかった。
そして薩摩藩は、琉球王の後継者問題もおこさせなかったので、李氏朝鮮のように、中国皇帝の裁可をうるために、莫大な金品を使うということもなかった。
琉球は気候が良く、環境もよいので、今のチベットや東トルキスタンのように、中国人がやって来て住みつき、原住民(琉球の人たち)よりも多くなり、国を乗っ取られるということも起こりえたはずだ。
ところが、琉球は、現代のチベットや東トルキスタンのようにならなかた。
薩摩藩は、琉球を通じた間接貿易で利益をあげたのは確かです。しかし、朝貢貿易だけが中国との貿易ではない。
『朝貢』は、中国との貿易の環境作りにすぎない。当時の日本では、海外との貿易は、長崎の出島に限られており、それ以外は、密貿易ということになる。
だから、中国と直接の交易はできなかった。だから、琉球に中国へ朝貢させることは、中国との間接貿易のためにはとても重要だった。
それと同時に、中国に琉球の内政干渉をさせないことも重要でした。
また、薩摩藩は江戸幕府の許可を得て、『琉球通寶』という貨幣を発行し、琉球に貨幣経済を持ち込み、経済の一体化をはかっている。
中国皇帝の下賜品を「仮に」薩摩藩が全てを搾取したからといって、琉球経済がおかしくなっただろうか、とても思えない。
薩摩藩の琉球の間接統治と琉球を通じた中国との間接貿易はとても巧妙でした。それは琉球経済のためにもなった。
琉球の人たちの呻吟は、琉球王の苛政にあった。琉球王を史実に違えて、美化するようになったのは、戦後のアメリカ支配の時からだ。
明治維新の時、琉球王が琉球を離れ、東京に居を移すと聞くと琉球の人たちは拍手喝采して喜んだものだ。
東京に移った琉球王は、九段下(現九段高校)に屋敷を構え、朝から芸者をあげて大散財をした。そして大正の初め頃には、その全財産を使いはたした。