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大谷吉継は豊臣秀吉御馬廻り衆として数々の武功を打ち立て、内治にも優れた名将であったが、
若くして癩病をわずらい、ために顔はくずれそれを隠すために普段より白頭巾をかぶっていた。
天正十五年大坂城で茶会が開かれた。
招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。
吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちた。吉継は「しまった」と思ったが作法上捨てるわけにもいかず、やむなくそのまま次へと回した。
諸将らは気味悪がり、その茶を飲むのをためらってみな飲んだ振りをして次へ回した。吉継は恥ずかしく思った。
石田三成は碗を受け取ると平然とその膿ごと茶を飲み干し、おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと告げた。
後、三成は権勢を増す徳川家康に対抗して反旗を翻し、西国の諸大名を率いて関ヶ原の合戦に挑むことになるが
吉継は西軍に利がない事を悟り、また家康より破格の条件をもって誘われていたにもかかわらず三成に与した。
戦場で小早川秀秋が裏切ると、背後より襲う大軍を寡兵をもって防いたが、壮絶な戦いの後部隊が壊滅すると自害を遂げた。