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CDジャーナル2012年03月号「片山杜秀の日々悶絶」
第14回 「君が代」リターンズ
「君が代」は2度やってくる。1度目は帝国主義に連れられて。2度目は新自由主義に連れられて。
帝国主義とはなんだろうか。まず国が強くなる。そのあと民が豊かになる。そう約束する。それが帝国主義だろう。
戦争をするか、力ずくの外交をするか。そうやって領土を拡張し、植民地を獲得する。すると国が富む。
国が富めば民も富むだろう。めでたしめでたし。とにかく前提は国が富むこと。
そのために民は死ぬほど働け!兵隊に行って死ね!でも、その先で民も必ず豊かになれる。
自分が死んでも家族や子孫が繁栄する。国に命を捧げよ!一致団結せよ!
国民が心をひとつにするための仕掛けが必要となる。そのひとつが国歌だ。日本なら「君が代」だ。
しかしこの筋書きは本当か。国を強くしてゆくには元手が要る。民に回さずプールし、投資する分は膨大だ。
ゆえにじつは分け前はあまり降りてこない。この現実にみなが気付くと帝国主義的国家は危機に陥る。
そこで次に出るのは福祉国家だ。放っておいたら回ってこない分け前を年金や保険のかたちで補おうという。
そこまで面倒をみてくれるなら社会の構成員として真面目にやるか。そんな気も起きるかもしれない。
が、福祉国家は金がかかる。経済成長が止まって少子高齢化が進んだりしたら続かない。
次はどうなる?新自由主義の登場だ。自己責任でよろしく!もう国は面倒みられません!
とはいえそれだけでは国が壊れる。好ましくない。
かといって金はない。もっと安上がりに連帯心を醸成する仕掛けに頼るしかない。
音楽である。声を揃えて歌うだけでみな仲良しと思い込めてしまう便利な代物だ。
かくして「君が代」は新自由主義と共に、たとえば小泉純一郎や橋下徹と共に改めてやってくる。
帝国主義は後にくる幸せをいちおう約束したが、新自由主義は単に勘違いさせるために「君が代」を使う。
みなは自己責任の世界に孤独に放置される運命なのに、
「君が代」を歌うことでまだよそとつながっているのではないかと妄想してしまう。
新自由主義はこの安手の妄想に期待するのだ。乗せられるなよ!